最近、毎日毎日、毎日毎日、毎日毎日毎日毎日ぼくらは鉄板の~♪……ではなくて(昔流行った「およげ!たいやきくん」若い方は知っているかな~?)拳銃を使った事件が多いですよね?? もうどの事件がどれだか区別がつかないくらいです。
現在のアメリカ人の方々としては、祖先のピューリタンの方々が神からアメリカへ渡る使命を受けてきたと解釈しているそうで、したがって自力で自由を勝ち取ることは
正しいことだという思想で、それを否定することは民族的アイデンティティーが揺らぐのだそうだ。
まぁ英国国教会自体が、王が自分の都合で作ったようなものだし…。
キリスト教はあのやさしい語り口とは裏腹に、父性原理の強い厳格な宗教だと思うが、多分ヨーロッパのような国境の接した平坦な開発しやすい土地では、なにか強いものがなければ人間が思い上がってしまうのでキリストが発達したのではないだろうか。
又、例えばイスラム圏、例えばエジプトのような荒涼とした砂漠では神意外に頼るものがなく、神が絶対的な存在として全人格を支配するまでになってしまっているように見える。
それに対して日本における宗教の位置は、儀式を慣習として行うことにとどまっている。
日本に古来からあった、農耕儀礼で自然を崇拝する神道が仏教にとって代わられたのも自然の成り行きなんでしょうか??
山や川や木、石、鳥、動物などにも神が存在すると信じられてきた神道だが、温暖湿潤気候で過ごしやすく、他国とも国境を接していない日本の風土は神を必要としていないのかもしれない。
それは人間を宗教に縛り付けない反面、モラルに対して希薄な民族性ができあがった…というのはうがった見方ですかねぇ…。
だいたい、体育会系と言われる運動部の上下関係も、もともとは「道」の精神が発端になっているのだと思うが、それが上の人間に都合のいいように誤って解釈されていると思う。
「道」とは物事を極める道程・過程を意味し、弟子が師につき、師の技術を模擬しながら受け継いでいく過程の精神論である。だから、見習われる方の師匠はそれにふさわしい人間でなければならない。
例えば武道系では、上の人間は下の人間より絶対に強くなければならない。そうでなければ見習う意味がないからである。そしてその強さは、精神の深さと解釈される。
ヨーロッパから輸入された「スポーツ」とは根本的に趣旨が違うのである。
蛇足だが「北斗の拳」でラオウがしきりに「弟に劣ってはならない」と言っていたのは
こういう意味である。
アメリカ人がキリスト教の教義を「契約」だとハッキリ認識しているのに対して、どうでしょう。
最も、この曖昧さが「刀」を比較的簡単に手放したとことになるのかな…。
ところで、夜、用があって少し遠回りをしたら、普段は使われていない空店舗みたいなところに近くある選挙に立候補している人の選対本部ができていた。
そこにやってきた人…。TVニュースで頻繁にコメンテーターとして出演している某弁護士だった。
TVと全く同じ好印象だった。
江戸紫。