連休中に、昨年公開された映画「マリー・アントワネット」のDVDを観た。
なんの予備知識もなく観たのだが、まぁなんというアメリカンポップなアントワネット!
まずそれにびっくり。
しかし観始めてみると、アントワネットの性質~多少(?)思慮が浅いが、素直で無邪気でかわいらしい~が軸としてしっかりある。
それをよく表現しているのが、作品全体を統一している明るく淡い色調。
衣装や小道具もできる限りパステルカラーを使っている。
そもそもヴェルサイユ宮殿は、有名な鏡の間一つとってもわかるように、豪奢で重々しい。
様々な色の大理石の床、柱、扉の金細工、クリスタルのシャンデリア、天井画、胸像、ベルベットや毛皮や金糸・銀糸のファブリック、庭園にあるいくつもの噴水、運河、離宮。
個々の私室はこぢんまりしているが、全体として見た場合、この舞台を扱うとどうしても重厚で豪華絢爛に、となる。
DVDを観たあとHPを見てみたら、原作者や監督のアントワネット像、アントワネットについての解釈が特に新しいわけではないが、この演出、この音楽は今までに観たアントワネットものとは明らかに一線を画す、新しいものだった。
もう一つ感じたことが、女性側からの視点で描かれていること。
女性監督ならではの、アントワネットの女性としての心情の描き方に無理がなかった。
「マリー・アントワネットの生涯」を著した藤本ひとみも書いているが、14歳の少女が毎晩夫との夫婦生活がないからといって、身もだえするほど寂しいものだろうか。
この男性の手による解釈と思われる定説が長い間信じられてきたが、この作品ではむしろ、世継ぎが生まれないことによる宮廷内での立場の危うさ、周囲からのプレッシャーを描いている。
この時代の王妃に世継ぎが生まれない、ということはどうなるのだろう? カトリックであるから離婚はできないはずだが、尼僧院行きになるのだろうか?
浪費、遊び好きの理由としては、この同盟のために輿入れした国での不安定な立場を紛らわすため、という方がよほど納得が行く。
最も、藤本ひとみはその理由を本人の遺伝的性質と帰結していて、そちらの解釈の方がよほど新しいが。
この作品は、革命によって運命が急転直下する寸前の、ヴェルサイユ宮殿を後にするところで終わっている。
自分の楽しみを追っていたら、ある日突然憎まれていることに気がついた、というアントワネット。
他の作品では、外界で起こっている革命への軌跡も同時進行で描かれているため、観る方は両方の視点から観ることになるが、この作品ではアントワネット自身の視点のみで描かれているため、戸惑いがよくわかる。
しかし、実はアントワネットの真骨頂はここから始まる。
普通の身分で普通の人生を歩んでいたらおそらく幸せだっただろうというのは、アントワネットについての書物では共通の見識だが、その平凡な女性が、好む好まざるに関わらず革命という嵐に投げ込まれたことによって、思慮深く大胆で決断力に富んだ人間に変貌を遂げる。
大ミラボー(王党派の有力貴族)をして「国王の周囲にはもはや男は一人しかいない。それは王妃だ。」と言わしめたほどである。
一家で幽閉されてからのアントワネットの、王党派の貴族と通じて母国オーストリアにフランスに対する戦争をしかけさせようとした凄腕ぶりには、敵である革命家も舌を巻いたそうだ。
そして、死に向かうにつれて真に王妃らしい誇り高い人間に成長して行く。
この軌跡が描かれていないことは非常に残念だが、原作者や監督が興味を惹かれたのはこの前半の部分なのだろう。
どこかで聞いたが、「アメリカン・ドリーム」の国では、滅びの美学とか、散り際の美しさというものには価値観を見出さないそうだ。
しかし、どんなに悪感情をもっていても、一度会うとたちまちその魅力にほだされ好きになってしまうと言われたアントワネットの魅力はこの前半の部分で十分に描かれている。
余談だが、前記藤本ひとみの説明によると、「マリー」というのは「かわいい娘」というような意味であり、(日本名の「○○子」の「子」と同じような意味らしい)それだけでは名前としての意味をなさないのだそうだ。
“かわいい娘”アントワネットということになるのだろう。
したがって普通は二番目の名前で呼ぶそうだ。
そういえば、書物でも必ず「マリー・アントワネット」もしくは「アントワネット」と書いてある。
HPの説明では「マリー」と書かれていたが、この点でも今までのアントワネット像と差別化を図ろうとしたのかもしれない、とは曲解か…。
最後に、いつも言うことだが、その国特有の歴史や文化が主題の作品はその国の言語で観たい。
これだけでアントワネット像を語るには無理があるが、友人のような親しみやすいアントワネットとして観られる。
コミカルに描かれたヴェルサイユの宮廷生活もいいスパイスになり、それなりに楽しめる作品である。
パステルピンク。