生きているのが当たり前のような錯覚。
普通に生活していると、この錯覚が錯覚とは感じられないほどに麻痺している。
自己防衛の知恵なのか、恐怖からの逃避なのか。
生きていると、誰しも何度か死にたいと思ったことはあると思う。
だが、本当に一線を越えるその瞬間になると、心底激しく後悔する。
どんな状態でも、たとえ半病人でも役立たずでも今は何の希望もなくても、ただ生きていたいと猛烈な激情が内側から突き上げる。
自分が死んでも誰にも知られず、明日の朝にはなにも変わらずに陽は昇り一日が始まり、人々はお構いなしに食べて働いて日は暮れる。
そして、しばし悲しみの対象になったあと、自分はいずれ忘れ去られる。
そう、恐怖の根幹は忘れ去られること。
取り返しのつかない失敗をしたという背筋の凍る感覚。
先週日曜日、11月9日に行われた友人の追悼ライブ。
友人が所属した3組のバンドが一堂に会し、渾身の演奏をした。
喪った友人を忘れずにいるのも、生きてさえいれば…と、そんな注釈をするまでもなく、強烈な印象をこの世に残した。
みんな、きっと忘れないと思うよ。
本日の気分は「レンガ色」。
"Our love can move a mountain"
愛で山を動かせる?
そうだね、それは今この瞬間に全力を集中させるから。
雑念を含まない純粋な想いは強力なエネルギー。
どのような外的要素にもとらわれず、ただ自分の気持ちにのみ忠実になる。
そして、相手もそのエネルギーを受け止めるだけのエネルギーを持っている。
物事はバランス。
もし相手が無関心であれば、その全力をかけたエネルギーは容赦なく素通りする。
その可能性にかけることがどれほど勇気のいることか。
そしてそれをどう表現するか。
ジョンは「海のありふれた波にはなりたくない」と言う。
そこはロッカー。
「僕は岩(ROCK)だ」と。
彼女に永遠を誓い、一生裏切らないと言った。
まぁそれはご愛嬌。先のことなんてわからない。
ただ、今この瞬間の想い、過去の積み重ねへの執着でもなく将来の保証でもなく、今この瞬間の真摯な想いの連続が将来を作る。
その意味では今も将来も同じこと。
今この瞬間に永遠を込める。
永遠を込める決意をROCKする(鍵をかける)。
次の瞬間にはまた、今この瞬間に永遠を込めてROCKする。
一瞬前への執着でも将来の保証でもなく。
そしてその次の瞬間もまた、永遠を込めてROCKする。
………
人生はROCK。
※私は海の波も好きだけどね(笑)
今日の気分は「コバルトグリーン」。
暖かく明るい正午の駅前プロムナード。
昨日の土曜日、ちょっとした用事で駅前まで出かけた。
あまりの気候の良さにしばらくプロムナードで音楽を聴きたくなった。
思えば、ローリングストーンズのチケットを買った1月中旬から、曲を覚えるためにストーンズ漬けの日々。他のものは一切聴いていなかった。
怒涛の冬だった。いつの間にか季節が変わっている。
自然と、自分の音楽史をたどるような選曲になった。
と同時に、当時の状況が浮かんでくる。
20代前半までは、クラシックしか聴いていなかった。
初めて本格的なファンになったハウンドドッグ。
25歳の頃に、今後の人生はおまけでいいというくらいに打ちのめされ、再び浮上しようとしていたところ、またもや打ちのめされた28歳の頃。
●ハウンドドッグ「ジェラシー」
●ハウンドドッグ「ロングラン」
ロングランの「喜びは一握りだとわかってる、それでいいさ」
という歌詞。
当時、このフレーズに甚く感銘を受けた。そしてこのような自己暗示をかけてしまった。
誰もそんな制限を強制していない。
この世は喜びに満たされているのに。
この制限を持ち続けて、怒りをぶつける対象を確保しておきたかった。
自作自演の責任転嫁。
●シャンソン「枯葉」
「さくらんぼの実る頃」も聴きたかったが、音源がなく「枯葉」しか入れていなかった。
広告業界とはいったい何だったんだろう?
今となっては夢のようだ。
常識・非常識、合法・非合法ごちゃまぜのバイオレンス。
完全に手の切れた今、安心して振りかえられる。
本当に殺されそうになったアントニオ猪木に比べれば、私の場合はおそらくギミックだったんだろう。
●ボン・ジョヴィ「ブレイズ・オブ・グローリー」
●ボン・ジョヴィ「イッツ・マイ・ライフ」
アシスタントをしていた女社長。
映画「プラダを着た悪魔」のミランダそっくり。
公私混同しないだけマシだった。
だけど、社員の何倍も働いている姿を間近で見ていると何も言い返せない。
表現の仕方があさっての方向で伝わらなかったが、社員を愛してくれていた。
たまに気になってネットで見ると、会社の住所が変わるたびに都心に近づく。
私は耐え切れずに辞めたけど、今の社員を大事にしてあげてね。
●沢田研二「憎みきれないろくでなし」
●沢田研二「酒場でDABADA」
「アリフ・ライラ・ウィ・ライラ」と「魅せられた夜」が聴きたかったが、マイナーな曲らしく、今のところ動画サイトでしか聴く方法がない。
最近になってやっとこのような軽妙な洒落た歌を聴けるようになった。
当時のことを今、再体験している。
「明日は女社長が○○会社に営業に行くから、最短経路を調べて資料をそろえて…」
と、いつの間にか本気で段取りを組み、ハッとする。
同時に今この瞬間、私はここにいる。では、この私はなんだ?
時間が偏在する。
どれが私だろう?
いや、すべて私だ。
無意識に沈み込んでいたものが曲によって誘われ意識上に顔を出す。
おそらく、今の段階で癒されたいものだけが…。
そして、素直な感情を自覚することで癒され燃え尽きる。
その後は、存在そのものを否定し憎んでいた相手でさえ愛おしい。
しばし抜け殻のようになり、リセットされる。
そうしてリセット後、最初に聴きたくなった曲は…。
18歳の頃、ベートーヴェンにのめり込んだきっかけになった曲。
「ピアノ協奏曲第5番『皇帝』」。
この懐かしい響き。頭の中で嵐が渦巻く。
「皇帝」に関わる様々な記憶が一斉にスパークする。
万物流転。
戻ったのではない。何度目かのリスタートが来た。
本日の気分は「帝王紫」。
ベロマーク。これほど明確なアンチテーゼとレジスタンスを示したロゴはそうそう見られない。
あまりにも有名なローリングストーンズのロゴ。
相手(既成概念)に対し、拒絶の態度を示しながら、自分は舌を出す。
舌を出す(内臓を見せる)ことは、文字通り内面をさらけ出すこと。オープンマインド。
この絶対的な自信と覚悟。
その原始的なパワーに、ファンは無意識的にセラピストとしての役割を期待する。
ステージを所狭しと走り回る70歳のイカレたジジイ。
健全な啓蒙活動ではもはや救いようのないまでに行き詰った無力なファンは、この目の前の奇跡にすがる。
そして、イギリスの心理療法家ケーネス・ランバートの言う「傷ついた癒し手」の治療者と患者の関係が成立する。
「病者は病(デーモン)を健康な人にうつす。そして後者の力がデーモンに打ち勝つ。」
ライブが始まり、時間が経つにつれ、加速度的に意識変性が起こって行く。
相手の作り上げた領域(舞台)で狂喜し、感動し、融合し、そうして深層意識にまで退行し、ステージ上の相手と自分の境界があいまいになる。
このイカレジジイに受容されることで浄化され、昇華する。
…………
3月6日、かくして私は担架で運ばれた。イェーーイ♪
本日の気分は「ガンメタルグレー」。
いつの頃からか、気に入った文庫本をお守り代わりに持ち歩いている。
20代の頃は、マルクス・アウレリウスの「自省録」。
30代は「老子」、「武士道」。
いつ何時でも、自分の矜持を保ち続けられるように。
そして最近はずっと「風姿花伝」。
能楽の祖、世阿弥が記した能の聖典。
格調高い芸術論、日本の美意識の教典。
銀座松屋で開かれた「観世宗家展」で、この「風姿花伝」の世阿弥の直筆を見ることができた。
約600年も前のものであり、展示するだけでも負荷がかかるということで、今回限りになるという。
世阿弥が書いた文字。感動のあまり気絶するかと思った。
人格統合の最終目的は不動心かもしれない。
何物にもとらわれないニュートラルなマインド。
人としての尊厳である「自由」は、ニュートラルなマインドから生まれる。
過去にとらわれ未来を案じ、常に「ここではないどこか」に思いを馳せ、今この瞬間にできることから目をそらし、勝手に焦燥感を感じていた時代、時間は無意味に過ぎて行った。
時間と自分は分断された。
この世の現象は常に2つのみ。
統合と分裂。
能の神髄は、一瞬に永遠を込める。
今この瞬間に過去と未来が混在する。
「今」この瞬間に集中した時、
時間は自分自身になる。
p.s.銀座に行った時に必ず買う、ダロワイヨの紅茶を買おうと思ったら、店舗が移転していた。
ダロワイヨと私は分断された(泣)
本日の気分は「若竹色」。
20:00からEテレでベートーヴェンの第九を聴いた。
現在、そのあとの「らららクラシック」をBGMにして書いている。
そして23:30からは恒例のジルベスターコンサート♪
毎年書いているが、このジルベスターコンサートでは、曲が終わると同時に新年が始まるというスリリングな演出をしてくれる。
今年のカウントダウンの曲は、「威風堂々」。「ボレロ」ではなかった(泣)
でも今年はイギリス貴族のマンガにハマッたことだし、まぁいいか。
「らららクラシック」で、ゲストの方々に「今年の漢字を1文字で表すと」と質問している。
My 今年の漢字は「永」です。
本年も読んでいただきありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。
本日の気分は「薔薇色」。
長いこと、すっかり誤解していた。
この「ロンリー」、愛する彼女が自分の憧れる世界に飛び出していくのを応援しているのかと思っていた。
今日、何気なく和訳を読んでいたら全然違う風景が見えてきた。
「とてもたくさんの孤独」というのは、1人きりで行く彼女のことではなく、彼女を待つ彼自身のことだった。
フェアプレイが通用しない世界に踏み込んでいく彼女。
そう、フェアプレイが通用しない世界はたくさんある。
昔の私は、言わばイジワルな大人に邪魔されて裏通りを通っていたようなものだ。もちろん、自分にそれを跳ね返す力がなかったからなのだが。
通常の道を通っていたらできないような貴重な経験であり、その時の対処は一生の財産になった。今さらなかったことにはしたくない。
が、経験しなくても済むものならその方がいいに決まっている。必要な努力と意味の無い苦労は違う。
まぁ今思えばどうということはないが、過去を俯瞰できるようになった今、ふと周囲を見渡して思う。
実力のある若者には同じ思いをさせたくない。
日の当たる道を歩いて、真っ直ぐ伸びてほしい。
ゴールド。
創造的、革新的、情熱的。
ベートーヴェンの音楽性を表すとこうなるだろうか。
そしてことさらに、反権力的。
あらゆる権力に対して、本能的な嫌悪感を示したベートーヴェン。
その思想信条は、自由に生きられない当時の貴族社会で育った女性達にとっては、畏敬の念を抱きこそすれ、共に生きるには世界が違いすぎただろう。
「不滅の恋人」と、最大級の崇高な呼称を捧げられた女性さえも、ベートーヴェンとは共に生きる道を選ばなかった。
※『我が不滅の恋人よ』との呼びかけで始まるベートーヴェンの熱く激しく感動的な恋文からこう呼ばれている。その相手が誰なのかは歴史上の謎。
孤独なベートーヴェン。
その情熱を向けられると身が持たない。
その創造性・革新性を見せ付けられると、凡庸な自分が悲しくなる。
その反権力思想を発揮されると、波及効果が恐ろしい。
ベートーヴェンの力にはなれず、受け入れることもできず、ただ遠巻きに見ている。
尊敬しているが、どう付き合ったら良いのかわからない。
だが、孤独も、苦悩も、絶望も、全てを受け入れ、運命を主体的に享受し、突き抜けた先には光があった。
「苦悩を突きぬけ歓喜に至れ」
ベートーヴェンが自身の生涯から導き出した究極の言葉。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
新月の日から3日目。月は細く鋭い。
繊細だが華奢ではなく、なめらかな下弦の曲線がゆりかごのような安心感とノスタルジーを誘う。
ベートーヴェンはこの普遍的な姿を持つ月さえも創造的な新しい眼で見ていたのだろうか。
その月を左前方に見ながら歩いて行く。
気持ちがはやる。
世界的大ピアニスト・ブーニンが弱冠19歳でショパン・コンクールで優勝したのが27年前。日本でもブーニン・フィーバーが巻き起こった。
そのブーニンの演奏を初めて生で聴ける。
ピアノソナタ「月光」。
ベートーヴェンがつかの間のロマンスの相手、ジュリエッタに贈った曲。
ベートーヴェン自ら「幻想風ソナタ」と記したこの情感溢れる曲さえも、ピアノソナタ形式の伝統を破り、革新を試みている。
※「月光」のタイトルは後に別人がつけた。
試行錯誤をしながら前進していく姿は人の胸を打つ。
心的態度は自分の意思で選択できる。
「苦悩を突きぬけ歓喜に至れ」
ベートーヴェンは死の床で最期の瞬間、虚空に向かって拳を突き上げた。
歓喜の先へ、更に進もうとしたのだろうか。
そこにはおそらく、平安があるのだろう。
(画像上:ベートーヴェンの肖像)
(画像下:「不滅の恋人」への手紙)
本日の気分は「緋色」
檻から解き放たれた。
しかし、自由になったわけではない。
荷車に乗り処刑台へ行き、荷台から見下ろしている彼が自分を処刑する。
アントワネットの最期の姿、真に王妃らしい威厳に満ちた亡くなり方は、もはや伝説化しつつあるが、先日行った「マリー・アントワネット展」でこの肖像画を観て、改めて鳥肌が立った。
原画はかなり大きいサイズで、150号(およそ227×162)~200号(同259×181)くらいあるかもしれない。
※書物等の資料とは若干配置や人員構成が違うので、心理描写としての演出なのだろう。
アントワネットの表情が丁寧に描き込まれている。
その瞳の向かう方向を辿っていくと……
なんと、処刑人(サンソン)を凝視している。
自分に残された時間はあとわずか。
手を下す男が自分を見おろしている。
周囲は憎悪と敵意の嵐。味方はいない。
その状況で、逆に処刑人を見据えられるだろうか。
相対的自己規定は意味をなさない。
自分がどうしたいか。自分の良心、自分の矜持、元王妃という属性に基づく威厳、何より、人としての尊厳を保って最期の瞬間までの時間を生きた。
これが軽佻浮薄で自己の立場を省みず、自分の楽しみを追うことしか考えていなかったアントワネットの最期の姿、アントワネットの真骨頂。
「万物流転」人は変われる。
「徒手空拳」武器などいらぬ。
私の好きな2つの言葉。
そしてもう一つ。
「内面を掘り下げよ。泉は心の内にある」~マルクス・アウレリウス
(写真2番目と3番目:王妃時代の盛装用ドレスとその後姿)
本日の気分は「帝王紫」
「私のために泣け」と言われたら泣けるか。
「私のために死ね」と言われたら死ねるか。
現在普遍的と思われている「愛」の観念は、実はわずか200年の歴史しかない。
ルネサンス以前、愛とは神に対する信心だった。
ルネサンス以降、ヨーロッパで絶対王政が確立すると、愛とは王に対する忠誠に変わった。
そして、革命によって軒並み王政が倒れると、愛は初めて人間同士の真剣な仕事になった。日本には、戦後欧米の文化と共にこの価値観が輸入された。
もともとは神に対する思いだったものを、今では対等な1人の人間に対してぶつけている。
その強いエネルギー故、自分自身の内的な制御が必要になる。
しかし、異性愛が人間愛に昇華していない若い頃は、時に暴走する。
この「オールウェイズ」では、君に言われれば泣こう、死のうと、失った相手を取り戻したいあまり、相手に自分の主体性を明け渡してしまっている。
この甘美な危険。前後見境なく、先の計算などしない若者の特権。
恋愛に夢や希望を持ち、いつも暴走気味だった高校生の頃の私なら、この歌詞に感動しただろう。
驚くべきは、このあまりにも純粋でベタすぎて、感想を書くにも途方に暮れてしまうような歌が発表されたのがジョン32歳の時であり、50歳になった今なお歌えること。
アンドロギュヌスのようなジョン。
33歳のジョンが、ロンドンの弱く優しい夕日に包まれて歌ったその表情は、聖母マリアの母アンナを彷彿とさせる。
それは、この歌の主人公が対象喪失を経験し、絶望し打ちひしがれ、どうにもならないと悟った後、真に相手の幸せを願う人間愛に目覚めることを予感させる。
琥珀色。
近隣の市の某自動車工場の某フェスティバルに、付き合いで顔を出した。
車の解体ショーがあるという話を聞いた途端にもの凄いテンション急上昇になったが、昨年はあったものの、今年はないということが判明した。残念。
まぁ「破壊」ではなく「解体」なので、キレイに分解していくパターンなのだろうが。
ちなみに、職場でもなにか分解するものがあったら真っ先に声をかけてくださいと頼んでいる。
「自民党をぶっ壊す」と言った元首相は「破壊」のつもりで言ったのか「解体」のつもりで言ったのかは判断しかねるが、自分だけ楽しい思いをして国民はその恩恵にはあずかっていない。
私も自民党解体ツアーの回数券の1枚でも欲しかったものだ。
そもそも、一国の首相が選挙で明言した言葉にも関わらず、解体に対するこの不遇な扱い。
解体の社会的地位がなぜこんなに低いのかというと、教育の問題だと思う。
子どもの頃から義務教育の一環として、解体の意義と楽しさの両面からアプローチをすることが必要である。
作る方は「図画工作」で。壊す方は「解体」で。
物事を両面から観る眼、逆の立場から考える能力を養う。
車には両輪が必要である。あっ、現代の車は4輪か。
将来の夢はピアニストや医師というのと並び、解体師になりたいという子どもが増えてほしいものだ。
そして、今話題のノーベル賞に最も必要なのは、ノーベル解体賞である。
ノーベルといえばダイナマイト。
つまり爆破=破壊≠解体…ちょっと辛くなってきた。
ただこれだけは言える。未来は解体の先にある。
未来といえば、今日の露店の店員さん達。
自動車工場だけあって、ほとんどが若い男子。彼らの未来は明るい。
(写真:クラシックカー展示場の一台。今上陛下が皇太子時代にご自身で運転されていた車。)
瑠璃色。
昨日、突然思い立って日帰りで行ってきた。
というのは、土曜日に変な時間に寝たら変な時間に起きてしまい、その時に頭の中に軽井沢の情景が浮かんで行きたくなってしまったワケです。
タダの写真のように動かない景色が浮かぶだけならこんなことはないのだが、まるでその場にいるかのようにあのヒンヤリとした空気を感じ、人々の声が聞こえ、木々の葉が風に吹かれてサラサラという音が聞こえ、景色全体が動いていたらもうダメです。いてもたってもいられません。
さて新幹線のシートに座ったら例の如く寝てしまい、そして…
眼が覚めたら軽井沢だった。おはよう、久しぶり。少し寒いね。
まずは旧軽銀座の老舗コーヒー店で本日の行き先をピックアップ。
行きたいところが何箇所かあったが、どうせまた来たくなるんだからと思い、旧三笠ホテルと雲場池の2ヵ所だけにした。
旧軽銀座で待機中の人力車。乗らないのに快く撮らせてくれた。
旧三笠ホテル。国の重要文化財で館内を見学できる。
これはロビー。
というか、歩いて行くには少し遠い。
行き倒れになるかと思った。
雲場池。2006年に続き2回目。
もう少しで紅葉が始まりそうな気配で惜しい。
再び旧軽銀座へ戻ってブラブラ。拠点のような認識でいる。
名残惜しいが夕方頃帰途についた。
旧軽銀座の老舗コーヒー店「ミカドコーヒー」で購入したオリジナルのワンパックコーヒー。
ミカドコーヒーに添えるならミカドのカップですよね。ただしこちらはフランスのミカド。
散歩感覚で行ったからか、自分が何者でもなく、景色の中に紛れ込み、誰にも気に留められないというのは気が楽だった。
軽井沢は本当なら1ヵ月に1度行きたいくらいだが、今度はいつ行けるかな。
白群(びゃくぐん)。
先日(といっても2ヵ月ほど前)、某所に於いて、話の流れでランボー風のコスプレをした。
後世に伝えるには憚れるので証拠は残したくなかったが、ここまで来たらの勢いで記念写真を撮ってもらった。
そして、ここまで来たらの勢いで友人に送りまくった。
以下、返ってきた感想。
●ファンキーだね
●プロレス観に行ったの?
●いいな!
●ついていけない
●そんな格好するなんてちょっとビックリ
●プロレス観戦?
●気迫だけは伝わってきた
●楽しみすぎ
●反中(中国)?!熱いわマリーさん
●楽しそう
●よかったですね
●カッコいい
尚、返信は来たがこの件については触れなかった方が1名。
気持ちはわかる。
ガンメタルグレー。
いつもボーっとしているので気づかなかったが、知らないうちに切り裂きジャックに会っていたらしい。
※切り裂きジャックとは、19世紀末にイギリスに実在した連続殺人鬼。
20年前ならともかく、このトシになってこんな目に遭うとは思わなかった。
とはいえ、こんな刺激的な事件は久しぶりなので、その痕跡をしばらく観察した。
状況説明をすると、切られたのは私ではなく、はいていたジーンズ。
左足の大腿部後ろ側が、刃物のようなもので切られていた。
スペックは横方向に10センチ、右から左へ水平から15度ほど。
ただ気になるのは、その切り口があまりキレイではないこと。ナイフの手入れが行き届いていないと思われる。
ジャックにしては詰めの甘さを感じた。失格!
本物のジャックなら道具の手入れを欠かさなかっただろう。
本日の結論:
リアルジャック>>>>>超えられない壁>>>>>にせジャック
利休色。