西部開拓時代の無法者ビリー・ザ・キッドを歌った曲「BLAZE OF GLORY」。
ボン・ジョヴィの中で最も好きな曲であり、最も感情移入できる曲、ファンになった2006年から毎日のように聴いている曲。
今までに何度も途中まで書いては消しての繰り返しだったが、きっとこれでは永遠に終わらない。
また書きたくなったら何度でも書けばいいのだ。私の中では完全に消化されてはいないが、今の時点での感想を書いてみたい。
長い間、「GLORY」というのがよくわからなかった。キッドにとっての栄光ってなんだろう。
上官に裏切られ母を殺され無法者に落ち、賞金をかけられていつ殺されるかもわからないキッド。
やることもなく誰にも必要とされず誰も信用できず、後世に伝えるものも残すものもなく逃げ続けるだけの日々。
そんな日々がいつまで続くのかもわからない。
「賢い大人になれるの」とキッドに聞いたのは無邪気な少女だろうか。
キッドは大人になるまで生き続ける希望を見出せない。
安らぎがあるとしたら、もはや天国しかないだろう。
英語圏での使い方を見る限り、「GLORY」というのは地上の栄光というよりは天国の幸福感に近い印象を受ける。
そうすると、「BLAZE」は、炎というよりは光、すなわち天国の光。
ピューリタンの歴史上、キッドといえども信仰心は持っていただろう。
誇張にしても、21歳の生涯で21人を殺したという伝説が残るキッド。
天国の光の中に落ちて行くのに、
「(神に)今さら許してもらおうとは思わないが」と懺悔に対する諦観の念を表してはいるが、先に銃を抜かなかった(卑怯な真似はしなかった)、だから大人の男として死なせてくれとだけ願っている。
この歌はキッドの遺書なのだ。陰鬱なイントロは、キッドの慟哭に重なる。
西部劇を見るとよく決闘のシーンが出てくるが、この時代の決闘は話に聞くほど正々堂々としたものではなかったそうだ。ルール無用のだまし討ちが横行していたらしい。
決闘一つとっても、家名に泥を塗るような行為は許されなかったヨーロッパの名門貴族のような、磐石な社会基盤はまだ無い時代。誰でも生きるだけで精一杯だった。無法者の末路は言うに及ばず。先に銃を抜かなかっただけでも十分に大人の男だろう。
そしてこの「先に銃を抜かなかった」というのは、「人の命が草より軽い」と言われた西部開拓時代の、社会的混乱の被害者、という比喩ともいえる。
キッドを討ち取ったのはかつての盟友パット・ギャレットだった。
パットを責めることはできない。キッドよりはるかに年長の彼は、余生を一社会人として平穏に過ごすことを望んだ。
キッドを暗闇の中で撃ったのは、昔の仲間を討ち取るのに明るいところで正面から撃つことはできなかったのだと思いたい。
後年、そのパットも最期は背後から撃たれて絶命している。
キッドの生涯は多くの人に実に様々なインスピレーションを与えているようだが、私にとってのそれは、矢吹ジョー、デビルマンにも通ずる、アウトサイダーの居場所論になる。
キッドは年の割には、また「無法者」という言葉から受ける印象とは違い、社交的で饒舌だったそうだ。
彼の周りは一筋縄ではいかない無法者の大人ばかり。
その中で居場所を確保し保身を図るには、周囲との適切なコミュニケーションが欠かせない。
その綱渡りのような生涯の緊張と絶望感はどれほどのものだったのか。
まさにコリン・ウィルソンのいう「アウトサイダー」の典型例であり、興味は尽きない。
※「キッド」というのが通称になっているが、子牛や子羊(又はその革製品、あるいはステーキ)を連想してしまうので個人的には「ビリー」と言うことも多い。
ボルドー。