ただ、お金がない時は今よりいろんなことが見えていたような気がする。
どうしてまだ自分は生きていられるんだろうと不思議に思うわけだが、それは自然が空気を与えてくれているからだと、うつろな頭である時思った。
お金がない自分でも、空気だけはタダで吸える。
自分のようななにもできない人間にも、自然は無差別に無言で与えてくれる。
そのいいものも悪いものも全て飲み込む器の大きさに、自分がいかに守られているかということを実感した。
そしていつの間にか、自然のサイクルの中では自分も、水一滴も、道端の花も蟻も
同じだと思うようになっていた。
それから何年も経つが、野菜と自分が等価値だと思うと無駄に捨てられない。
水一滴も自分の一部だと思うとムダにできない。道端の花を摘むことは自分が殺されると同じように思えてくる。
もし普通の状態に戻れたら敬意を持って自然と接したいと思ったまでもなく、実体験を伴ったことで抜けなくなってしまった。
ただ、こんなことを経験するのが必ずしもいいとは言えないとも思う。
自分でプラスになったと思っている点だけを挙げたが、同じように未だに抜けない
マイナス点もある。
もともと、コミュニケーション能力がないくせに自己主張は強く、自分のことをわかってもらおうとは思っていなかったが、世界中の人間が敵なんじゃないかという被害妄想は恐ろしかった。
ボン・ジョヴィの今回のアルバムの歌詞ではないけど、心が耐えられる痛みには限界がある。
無意味なガマンならする必要はないので、帰る場所がある、頼るアテがある幸運な
人は諸々の事情は置いておいてとりあえずそこに行けと言ってあげたい。
元気になったらいくらでも借りは返せるんだから。
コーラル。