いぶし銀。
友人に、私にはロック的なものを感じると言われた!!
ヤッタ~~♪
正直、「ロック的」と言われることがこんなに嬉しいものだとは思わなかった。
「ベートーヴェンが似合う」と言われた時以来の衝撃である。
しかもその友人というのはバリバリのロックファンなんですよ。
もうお墨付きをいただいたようなものです!
これからは私のことを「ジョン子」もしくは「ボン・ジョヴィ子」と呼んでください!!
…いや、それじゃお笑いっぽいから、
「マリー・ジョン・アントニオ」と呼んでください!!
発音的には「ジョン」より「ジャン」の方が好きなんだけど…w
カーボンブラック。
確か今日でヤフー動画のボン・ジョヴィのライブが終わりだと思った。
気づくのが遅かったけど、何度か見られてよかった。
ジョンありがとう。と言っても聞こえないよね。
心の中で何度でも言うよ。
ありがとう。
パープル。
ブロンズ。
先日のベートーヴェンは刺激が強すぎたので、そのあとヴァイオリンを聴いた。
「ヤレック・ポヴィフロフスキ」という人のCDで、あるとても印象深いできごとがあったのだが、それについてはまた別の機会に触れたい。
そのCDの中の、サン・サーンス作曲の「白鳥」という曲を聴いた。
これはバレエ「瀕死の白鳥」の曲で、力尽きて死んでいく白鳥を、プリマ・バレリーナがロマンティックに悲しげに優雅に踊る演目で、2~3分だが非常に情感あふれる曲。
その「瀕死の白鳥」を自身の十八番にしているのが、ロシアのもはや生ける伝説とも言える、マイヤ・プリセツカヤ。
確か70歳を過ぎていたと思うが、この演目は歳を重ねれば重ねるほど深みを増す。
といっても、舞台を見たことはないのだが…。
そんなイメージの動かしがたい「白鳥」だが、今回聴いていたら、最近聴いているアーティストのバラードがふと浮かんだ。
新しい境地である。
そして言いたい。
ベートーヴェンに、サン・サーンスに、ヴァイオリンに、ポヴィフロフスキに、「瀕死の白鳥」に、ロシアに、プリセツカヤに、某アーティストに、彼らを知ったキッカケに。
спасибо!
アイスブルー。
先日、ベートーヴェンを聴いてみた。
ここ2~3年ずっと音楽を聴いていなかったが、音楽脳の体力が少し回復してきたので決意を決めておそるおそる聴いてみた。
このHPアドレスにも使っている、一番好きな曲のピアノ協奏曲第5番「皇帝」
(作品番号=Op.73)をまず聴きたいと思っのだが、CDが見当たらなかった。
よく考えたらそのCDは昔のパートナーにもらったもので、別れた時に宅急便で送り
返したのだった。
今考えればそこまでする必要はなかったのに、ほんとバカだな~。
それで、結局、ピアノソナタ「熱情」という危険な(?)賭けをした。
危険というのは大げさかもしれないが、オーケストラ+ピアノの、明るく力強い「皇帝」に比べると、情緒たっぷりのピアノのソロの曲でしかもこの情緒たっぷりのタイトル。
やはり危険だ。
そしてまぁとにかく聴いてみたが、結局第一楽章の途中で止めてしまった。
ベートーヴェンの心情や思想が重く迫りすぎて、血を吐くような妄想が浮かび逃げ出してしまった。
ベートーヴェンは、最期の瞬間、昏睡から目を覚まし、右拳を突き上げたということだ。
最期の瞬間にこんなことができる人間って、どういう人なんだろう。
「人は生きたように死ぬ」となにかで聞いたことがあるが、まさしく拳を突き上げ続けたような人生だったとは思うが。
ベートーヴェンのことを「人類史上最もロックな男」と表現したファンがいるが、ナットクする(「最も」という最上級表現は個人としてのものと受け止めて)。
「苦悩を突き抜け歓喜に至れ」って、いい言葉だね。
ワインレッド。
康平~(泣)
歌いたくない気分だったら待っててあげる。
歌いたくなったら聴いてあげる。
泣きたくなったら腕を貸してあげる。
腕でも足でも首でも、何でも好きなものを
持っていけーーコノヤローーー!!(泣(泣
ベイベーピンク。
ニュースで豪雨の地域の映像が出た。道路が川のようだった。
大丈夫かな~?
そういえば、ハウンドドッグのアルバムに「RIVER」というのがあった。
ということで、昨日に続き懲りずにハウンドドッグ応援デーです。
このアルバムはなんだか、青年期の10年くらいの流れを言っているような気がする。
1曲目は「JEALOUSY」という思いっきり視界の狭いタイトル。
歌詞も惚れた女性の一挙手一投足に過剰反応し、悪魔が俺に味方しているのだから逃げてもムダだ、という虎の威を借る何とやら式の強がり。
おまけに最後にはキレてしまったのか、傷つくよりハデに抱いて苦しみたい、というわけわからない思考回路。
この混乱。かわいいね、かわいくて仕方がない。
それが、最後の方になってくると、「LONG RUN」では今までの人生を振り返り、若い頃に思い描いていたほど人生はきらびやかなものではない、しかし地に足をつけて生きていこう、というとりあえずは青春の嵐が過ぎ去ったあとの、毒の抜けたというか毒を消化したというか、そんな頃の心境を語っている。
次の「涙のゆくえ」では、1曲目のような、周囲が見えないほどの燃えたぎるような激情と同じ人物かと思えるほど、自分の愛、相手の愛、それぞれの属性を客観的に歌っている。
おそらく、現実の生活ではこの「涙のゆくえ」が良心とされるのだろう。
これを成長と呼ぶかどうかはわからないが、非常にドラマティックな一枚といえる。
「JEALOUSY」と「LONG RUN」は、最も好きな数曲のうちの2曲です。
灰桜。
天気予報によると、日曜日頃まではずっと雨らしい。
雨といえば、大友康平が一時期ソロ活動をしていた時に言っていた、ハウンドドッグとソロ活動それぞれのコンセプト。
ハウンドドッグは「どしゃぶりの中をみんなで駆け抜けよう」で、ソロは「雨の中、一人で佇んでみよう」ということだった。
康平は「雨」のシチュエーションが好きらしく、歌詞の中によく出てくる。
私が一番好きなのは、「ALONE」という曲の中で歌っている、雨に打たれてときめきも悲しみも流されていく…という状況を歌っている部分かな~?
ただしこの歌はカラオケでは普通入っいない。
逆にカラオケには必ず入っている「ONLY LOVE」。
これは街明かりが濡れる中、彼女が傘を投げ捨てて自分を駅まで追いかけてきた…という例の歌い出しで始まるのだが。
実はこれ、私としては妙に気になるんだよね。
傘を投げ捨てたって、どこに捨てたの?道端に??
それとも、都合よく不燃物系のゴミ箱があったの?
そもそも、投げ捨てたのは雨が止んだから?
街明かりが濡れているということは、止んだばかりなの?
用がなくなったからってその辺に捨てる人ってどんな人?どんな傘?
それを目撃しているにも関わらずウルウルする人ってどんな人?
それとも、まだ降っているけど追いかけるのに走りづらいから傘を捨てたの?
そう考えると、駅前の雑踏を走る時は、自分も傘をさしてスペースを確保していないと、人の傘が当たって危ないんだよね。
まぁ考えすぎなのはわかっているけど、歌の世界に入り込むのに、こういう曖昧な描写があるとイマイチ入り込めない。
そうはいってもこの曲は若い、純真な曲。
まだ人生の日の出の頃にいる二人がなんの保障も知識も経験もないにも関わらず、自分達には無限の未来が広がっていると信じている。
そして、未熟な愛だからこそ、恋愛信仰によってその愛を具体的な形にしたがっている。
そんな大人の目から見れば不安ながらも輝いている二人の世界を歌っている、若く楽しく無謀な頃に戻れる曲だ。
好きな曲、と言える方ですね。
マラカイトグリーン。
昨日「白夜」のことを書いて、改めて頭の中で歌詞を思い返してみた。
すると、今までずっと聞き流していた部分で衝撃を受けた。
「♪闇と光の間で さまよい続けていよう」
というところ!
こんな過酷なことがあるだろうか!
光の中はおろか、闇の中にさえもいられないんですよぉぉぉ!
どちらの世界にも属さずさまようんですよぉぉぉ!
まぁ恐ろしい!!
そのすぐ前で
「星も見えない~」と歌っているけど、いっそ闇の中なら「星」という希望、目印がある。
人はその属性によって他者との関係を図るものだ。
自分の居場所がはっきりしないということがどんなに不安で恐ろしいことか。
それでも「さまよい続けていよう」という、これからその状況の中で苦悩するであろうことを覚悟しているかのような言葉。
背筋が凍ります…。
この歌が発表された当時、若かった自分は、強くなることは傷つかなくなることだと思っていた。
だがそれは、自分の気持ちに夢中で、真の苦悩を知らない幻想から出た発想だ。
生きているんだから、打たれれば痛い。
「強くなる」ということは打たれ強くなることだ。
受けた傷を自力で癒し、それを忘れ去ってしまうのではなく、その傷さえも抱きしめて一緒に生きていく気持ち。
その傷跡とリンクして、他者の傷がわかる気持ち。
他者と傷を共有できる気持ち。
そして、自分の意思ではどうにもならないことを受け入れる気持ち。
その先が、幸福も不幸も結局は同じものだと達観したような
「さまよい続けていよう」ということになるんじゃないだろうか。
などと勝手に解釈している私w
パープル。
JAY WALK好きだったなー。
「何も言えなくて…夏」はよくカラオケで歌った。
あと、アルフィーの「白夜」も好きだった。
ライトブルー。