マリー・アントニオの日記へようこそ…今日の気分を、好きな薔薇の花の色にたとえて日記に綴っています。現実には存在しない色もありますがそこはご愛嬌?
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マリー・アントニオ
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非公開
自己紹介:
生年月日:1967年
★詳しくはコチラ
★日常、趣味、その他について感じたことをとりとめもなく綴っています。
★上記HPも興味があったら是非見てください。イラスト、ショートショート、エッセイ等を載せています。
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生きているのが当たり前のような錯覚。
普通に生活していると、この錯覚が錯覚とは感じられないほどに麻痺している。
自己防衛の知恵なのか、恐怖からの逃避なのか。

生きていると、誰しも何度か死にたいと思ったことはあると思う。
だが、本当に一線を越えるその瞬間になると、心底激しく後悔する。

どんな状態でも、たとえ半病人でも役立たずでも今は何の希望もなくても、ただ生きていたいと猛烈な激情が内側から突き上げる。

自分が死んでも誰にも知られず、明日の朝にはなにも変わらずに陽は昇り一日が始まり、人々はお構いなしに食べて働いて日は暮れる。
そして、しばし悲しみの対象になったあと、自分はいずれ忘れ去られる。

そう、恐怖の根幹は忘れ去られること。
取り返しのつかない失敗をしたという背筋の凍る感覚。

先週日曜日、11月9日に行われた友人の追悼ライブ。
友人が所属した3組のバンドが一堂に会し、渾身の演奏をした。

喪った友人を忘れずにいるのも、生きてさえいれば…と、そんな注釈をするまでもなく、強烈な印象をこの世に残した。

みんな、きっと忘れないと思うよ。


本日の気分は「レンガ色」。

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内面の大問題について書きますとか言っておいてすっかり放置してしまった。
というのも、こういうのってやっぱりあまり人には言いたくないですよね。
ただ、今回はこういうことに慣れているつもりだったにも関わらず、非常に驚いたので、期間限定(多分3日間くらい)でお話します。

-------------------------------

以下削除しました。(12月22日)

ベージュ。

未曾有の大災害から早くも1週間が経った。
あまりにもすさまじく、言葉にならない。
亡くなられた方々に、心からご冥福をお祈りしたい。

さてそろそろ私も、チラチラとストレス性と思われる体調の変化が自覚できる。
ケータイの画面が波打って見えたり、耳鳴りがしたり、
常に揺れているような気がしたり、
昨年夏から何をやっても治らなくて真剣に山崎さん(マイミクにさせていただいている元新日選手)の治療院に行こうかと思っていた肩の痛みが消えたり(緊張で感覚が麻痺している?)。

それでも、日常的にやっている自己催眠と瞑想が性に合っているらしく、かなり助かっていて、多少気持ちに余裕がある。
それで今回、自分の趣味を通してのストレス軽減を考えてみた。

大抵の人は、視覚、聴覚、運動感覚のうちどれか1つが他より優れていると言われている。
このうち、視覚関係、そのうち「描くこと」からのアプローチをしてみます。
あくまで個人的な見解なので、効果の程はわかりません。



10年ほど前からか、大人用の塗り絵が書店等に並ぶようになったが、塗り絵にはヒーリングの効果がある。
なにかで読んだことだが、高度成長時代の猛烈サラリーマンが退職後、精神科(当時はメンタルヘルスについての科はなかった)の治療で塗り絵を行ったところ、今まで抑圧していた感情が爆発し、号泣してしまったそうだ。

大人用の塗り絵は好きな人にとってはいいと思うが、有名画家の絵を見本通りに塗るようなものはそこで制約が生じてしまい、無心に自由に塗ってストレスを発散するという目的には高度に思える。
かえって子ども用の塗り絵の方がいいかもしれない。
色は自由に、対象の色にとらわれず、好きな色を好きなように塗るのが好ましい。

塗り絵の他には、例えば漫画。もし塗ってもよければ…。
それから、新聞の4コマ漫画やイラスト、記事の白抜き文字。
カレンダーや手帳の過ぎた月のマス。クロスワードパズルのマス。

もし塗るものがなければ、好きな絵や写真の上にラップやビニール袋を置き、マジックでアウトラインを引いたあと、そのラップを白い紙に貼れば簡易塗り絵になる。ただしマジックやアクリル絵の具しか使えないが…。

塗ることはしなくても、色鉛筆やクレヨンのカラフルな色を見ているだけでも良し。
日常の趣味やストレス発散と同じで、楽しくなること、気分が良い方向に向くことは自分の心が必要としていることだと思う。

被災地の方を心配する側の我々は、体調に気をつけて落ち着いて過ごしましょう。

ベージュ。

一点だけ気になったのが、なぜ他人の言ったことをそのまま鵜呑みにしてしまうのかということ。
知恵袋の回答が間違っているという可能性は考えなかったのだろうか。恐ろしい。

似たようなことは今までに何度も自分の周囲でもあったが、この年代の子ということなら2~3年前に通っていた自動車教習所でのこと。

どこの教習所もそうかもしれないが、一部の指導員が前近代的で、教習生の中には相当頭にきたのか「殺してやる」「訴える」と物騒なことを言う子もいた。

ある日、ロビーでの待ち時間に、顔見知りになった大学生(おそらく)数人と話す機会があったのだが、やはりそんな感じの話になっていった。
さんざん怒りの言葉を聞いたあと、自分も感想(というか不満)を話したのだが、それは主に以下のような内容。

・(指導員は)どうも戦前の徒弟制度と勘違いしていて、人格ごと自分の支配下にあると思っているようだ。
・「教える」という仕事に対する適性について第三者機関でチェックを受けた方がよさそうな人もいる。

それって誰?○○とか○○とかそうだよね?と言われ

・誰とは言えないが、自分のキャパを超えた状況になると非常に感情的になり、相手を罵倒して権威の保身に走るタイプと見受けられる人は何人かいる(キャパを超えた状況というのは、つまり私がヘタすぎなのと想定外の質問が多かったからなのだが)。

※ちなみに上記の指導員には路上教習時、「なぜ怒鳴るのですか?」「怒鳴らなければ物を言えないのですか?」「怒鳴ることでどのような効果が期待できるのですか?」「その効果は誰の利益になるのですか?」「それはどのような実績に基づいているのですか?」「教習所でまず一番に利益を受けるべき人は誰だと思いますか?」「質問に答えてください。指導員の義務です。」と問い続けていたら、泣いてしまった…。
不本意だが一応謝り、「あなたが一生懸命やっていることはわかっていますよ。」と言っておいてその後は勝手に走った。この話は指導員の名誉のために彼らには話していない。

・突然なんの脈絡もない単語で怒鳴られても、こう言ってはなんだが脳に欠陥でもあるのかと思うだけ。
・「病的な感情表現」「相手を罵倒」「自己保身」の3点セットが揃っているのだからコーチング研修とアサーショントレーニングは受けた方がいい。
・時代にそぐわない人権意識は、信じられないことだが何十年もブラッシュアップを行っていないと思われる→職務怠慢と言わざるをえない。
・一般の会社でも、ヒステリーを情熱的だと勘違いしている人や、怒鳴らなければ物を言えない世代はもう現場にはいなくなってきている頃だろう。
・パワーバランスの関係で教習生はものを言い辛いだけであって、口に出して言わないからといって心の中も同じとは限らない。
……
と、時間が有り余っていたのと、次々と聞かれるので、自分でも大人気ないと思ったがかなり言いたいことを言った。

その日はそれで終わったのだが、その数日後。

ロビーにいて、聞こえてくる話をなにげなしに聞いていたら、なんと先日私が言ったことをそっくりそのまま話している子がいる(後ろを向いていたので誰かはわからない)。
多分、あの時の子の一人なのだろうが、それが見事な(?)記憶力というか、ほぼ100パーセント近くそっくりそのまま話していた。

流れとしては「この前、年増の傲慢女がこう言ってたけど自分はこう思う」とか「この部分は同感」とかになるのかと思っていたが、出典(??)を出さずにそれを自分の主張として話しているのには驚いた。
死角の位置にいた私には気づかなかったようなので、興味深く聞いていたのだが、こういうのって怖くないんだろうか。

人の主張をそっくりそのまま自分の主張にすりかえて恥ずかしくないのか?
もし細かく突っ込まれたらどう返答するのか?
(「なぜ」を5回繰り返して掘り下げていくと、本当に理解していないことは答えられなくなるという)
記憶力はあれだけ素晴らしいのに、あの主体性のなさ。不気味だ。

この教習所、最後にアンケート・意見・感想を書くようになっていたのだけど、この子たちもちゃんと書いてくれたかな。
もし書いてくれたのなら、文言を少しアレンジしてくれたよね。原典は私なんだから(笑)

いや、真面目な話、最悪「~と傲慢女が言ってました」でも書かないよりは書いた方がはるかにマシなんですよね。

パールグレー。

たまっていたシュレッダー行きの紙類をかたづけた。

うちのシュレッダーは、一度に差し込む枚数はA4サイズ5枚くらいまでという設定です。
だけど処理する量が多かったのもあって、「こういうのってPL法対策で余裕をもって注意書きしているんだよね~」と思い、だんだん枚数を多くしていった。
そして、ノートを半分ほど表紙つきで入れたら動かなくなってしまった。
ちょっとやりすぎたかな?

ここで爪ヤスリ登場。
何種類かあるうちの、100円ショップのものを使った。
こういう時は気兼ねなく使えて便利ですね。
とはいっても、時間はかかるし指は擦り切れるし爪は折れるしそこらじゅう細かい紙クズがちらかるし、上等ですよ。

ところで、うちのシュレッダーが溜まりやすいのは、多分私のクセが原因ですね。
一つなにか終了するごとに、それに関わるもの全てを、原型をとどめないほどに細分化してから捨てないと気がすまないんですね。

イラストを例にとると、集めた資料、デッサン類はテーマによってはかなりの量になります。
それが仕上げると同時に全て上記のようにして捨てているので、書籍を除き、今までの資料やデッサンはなにも残っていません。

美術展・絵画展などに行くと、作者の習作や資料を展示しているけど、見る分には興味深いけど私だったらお断りです。そんな心配はありませんが。
というか描いた本人も、まさかそんな物まで何百年にも渡って展示されるとは思わなかっただろうな~。

b8952dad.jpegちなみに、その資料や習作で今までで一番感動したものは、10年以上前に見た「大ベートーヴェン展」での、とある1点(資料ではなく原本だが)。

あらゆる権力に対して本能的な嫌悪感を示していたベートーヴェン。
革命の申し子ナポレオンに傾倒し、彼のために「ナポレオン」と冠した交響曲第三番を書き上げたのだけど、そのナポレオンがよりにもよって権力の頂点である皇帝に就任してしまった。
怒りのあまり譜面の表紙をペンでかきむしり、タイトルを「英雄」に変更。

20eb27d4.jpeg「大ベートーヴェン展」では、その表紙が展示してあった。
セピア色に色あせた譜面。かきむしった跡に感じられる怒り。
その跡は穴があいているため、白い台紙に貼ってあった。
無機質な、しかしベートーヴェンに対する敬意が感じられる台紙の白と、約200年前の激情を残すセピア色の譜面のコントラスト。

ベートーヴェン、ナポレオンどちらも好きな私は、複雑な心境で長いこと見ていた。

モスグリーン。

其の疾きこと風の如く、
其の徐(しず)かなること林の如く、
侵略すること火の如く、
動かざること山の如し

をライブで初めて見た。

さすが孫子の国。
いや感心している場合ではないが。

緋色。

「話題色」

誤変換で出た言葉です。
出したかったのは

「和田移植」

です…。

最近、本人の意思不明の臓器移植がいくつかありましたよね。
私の場合、色々なところで言っているけど「提供しない」で、カードもご丁寧に2枚持っている。
最終的に提供が「イヤだな~」となったのは、15~16年前に立花隆の「脳死臨調批判」を読んでなのだが、その関連で遅まきながら和田移植の概要を知った。

和田移植が行われたのは私が生まれた1年後で、「ワダイショク」という言葉だけは知っていたが、それは何となく不気味な、イヤな印象を伴っていた。

今回、ニュースがあったところで、和田移植のもう少し詳しいプロセスを読んでみたいと思ったわけです。
医療関係の方の考察はさすがに難しいけど、昔から医者不信の私には「世の中にはいい医者もいるんだな~」と思えるのは思わぬ副産物である。

ダークグレー。

7月20日に書いた中での「投影」に関連することについて、他ならぬ私の件。

他者に投影されていたある欠点を自覚して、その後内部的作業として統合というかリリースというか、そんな感じで大分開放されたようなスッキリ感がある。
書いてみたことで頭の整理になったのか、自己をみつめ直すキッカケになったのか、自分の中である一定の成果があったようだ。
ちなみにその欠点とはブログの中に書いた「非言語コミュニケーションが云々…」とは別のこと。

自覚して初めて気がついたのだが、この欠点とはもうはるか昔から持っていたものだった。
今まで生きていて、それなりに人間関係も入れ替わっているが、その時々で別の相手に投影し、延々と繰り返していた。
自己の内部的問題は、解決しない限りいつまでも繰り返すと言われていたことを実感した。
それは、逃げても逃げても追ってくる。

自分の場合、その時々の相手を逆に「完膚なきまでに」とも言える異常なまでの攻撃をして気が済んでしまい、結果自分が相手に投影していた問題を放置するという形で逃げていたといえる。

最後となった今回の相手(ご本人は知らないだろうが)とはなぜそこまでの事態にならなかったのかというと、そういうことに飽きてきた、面倒になってきたことで、何もせずに次第に距離が離れていっていた。

そしてここからがおもしろいのだが、距離をとろうとすると今度は逆に何かしらの変化が起こり、そのまま一定の距離を保つようになった。

相手との関係が続くとなると、一般的な人間関係と同じように相手の良い面を見ようとする。
それはいいのだが、その反面、自分が投影された面(つまり、相手の欠点だと思っている点)からは目を反らしていった。

受け入れないものは無くなるわけではない。
以前と同じく、逃げても逃げても追ってくる。

受け入れられず、目を反らし続けていることが続き、しかもそれで以前のように直接相手を攻撃するのは止めよう、と思っているとどうなるか…。

結果、自己の内部で爆発した。
なんでこんな相手との関係を絶てないのかと、リリース(心理学的な開放テクニック)すると出てくるわ出てくるわ…(汗)
心の中での相手に対する悪態、罵詈雑言、延髄斬りからの卍固め…いやそれは違うか。

そこで初めてそれが自分の投影だったと気づいたわけです。
ここまでで既に何日もかかっていたのだが、そこからは速かった。

欠点といえども自分の一部。
敵意をもって戦い駆逐するのではなく、自分の一部として大事に扱い、ジャッジをせずに受容し統合する。

認められないものは変更できない、ということを、今までのリリースで体験していたのが幸いし、すんなりと運んだ。

作業で言うと、投影の自覚→認めて自分の一部として受け入れる→無意識領域への開放・統合となる。

これがうまくいくと、それ以降は相手に対しては好ましい感情のみが残る。
そして、相手との関係性はどうでもよくなった。
もともとそんな関係だったのだろうが、自己の問題をいい加減解決しようという自分の無意識が、その足がかりとして相手との関係を保持しようとしていたのではないかと思っている。

相手に対しては、存在してくれてありがとう、というところかな(笑)

ゴールド。

今までブログで、エゴグラムのFCがもう少し欲しいとよく書いていたけど
十何年も前にやった結果で自分で持っていないと思い込んでいただけで、今は既に(ある程度は)持っていたことに気がついた。

※エゴグラムについて詳しくは↓こちら
http://ludwigop73.blog.shinobi.jp/Entry/1033/
と思ったら、いつの間にかセキュリティ設定でリンクできなくなっている(汗)
2009年10月6日の日記です。

創作活動をするにはFCの特性は非常に有利だから、無意識的に常に欲するという形で失わないようにしていたのだろう。

そもそも、持っていなければ(その要素がなければ)意識の焦点が当たることはない。
持っているくせに欲しい欲しいと、なにを寝ぼけていたんだと思うけど、けっこう日常でもそうですよね。

コントなどで、頭の上に置いたメガネを忘れて探し回るとかあるし、「地球上の最後の一人になっても生き続ける」とがんばって(笑)宣言しなくても心臓は動いているし、出先でNWウォークマンの電池が切れたと思っても、鳥の声、風の音、街の喧騒に至るまで全ては音楽だし。

又、誰かを好きになる・誰かに興味を持って賞賛するというのは「投影」だというのも納得がいく。

通常、「投影」は逆の場合に使われることが多い。
誰かが嫌い、ムカツク、欠点が許せない…等、自分にもそのような面があり、それを自分では叱れないから、他者にその要素を見つけて怒っている、と解釈されている。
つまり、怒る相手を欲している。
本来、現象そのものはニュートラルである。

誰かを好きになり賞賛するというのは、本来自分の中に持っている要素を、自分では気恥ずかしくて褒められないから、対象に投影して賞賛したり好意を持ったりするのだろう。

ということは、私はボン・ジョヴィに通ずる要素があるんですね! やったーー♪

ちょっとまって、ということは、奇しくも前回の日記に書いた、「嫌いなキャラクター」は自分の何を投影しているんだろう。
しばらく考えて気がついた。
泣く、媚びる、キザな態度等、非言語コミュニケーションを脅迫めいた使い方をしているという点で共通している。
確かに私はそんな面がある…(汗)

ナイルブルー。

NHKで20:00頃にやっていた、草食系の若者がどうのという番組を見た。
あまりピンとこなかったのは、番組自体のテーマがちょっとズレていたからかもしれない。

ただ、そこで非常にびっくりしたことがある。
スタジオのとある一角の若者たちの席。そこはツイッターで意見を述べる専門の若者ギャラリーの席で、番組中に打ち込んでいる場面が何度か流れた。

初めはそれを見て、「言葉や耳が不自由な人も今はこうやってスタジオで意見を言うことが楽になったんだな~。」と思っていた。
ところが、途中で1回だけマイクを向けられた時、3人の人がちゃんと言葉を話していた。
あの人たち、言葉or耳が不自由な人たちではなかったのか。

でもそれなら、その場で挙手して発言する方式にすればいいだけじゃない??
新しい試みをやってみたいだけなのかな?
まわりくどいことさせているなぁ~~。なんだあれは。

あと弊害というか、本人に面と向かって言えないようなことを無記名で発信するのはどうですかね。
又、討論のスピードについていくには、やはり言葉を精査しているヒマがないらしく、感心しない表現が少なからずあった。

ヤジでも意見でも合いの手でも、ギャラリーとして口に出して言うのであれば、声に出し(アウトプット)、それを自分の耳で聴く(インプット)という身体的な客観性があるわけだけど、当事者の頭の中だけで回って完結してしまい、それを無記名で言いっぱなしにしてしまうのは、その場にいる人とコミュニケーションをとっているうちに入るんだろうか。

結局大人がこうやって若者の生気を奪っているんだよね~。
思ったことをその場で言う機会を与えてあげて、人にどう思われるかなんて気にしなくていいということを教えてあげてよ。

常磐色。

書店を何となく見ていたら、「超訳 ニーチェの言葉」という本が目に付いた。
黒のハードカバーで装丁は良かったけど、ニーチェかぁ~あまり好きじゃないんだよね、と思った瞬間に手に取っていた(笑)

内容を見て驚いた。
これ、ホントにニーチェ??
ニーチェは昔少し読んだだけだけど、なんとなく印象が違う。

考えてみれば、ニーチェを読まなくなったのは作品が嫌いなのではなく、ニーチェの人物像に反感を感じるようになったからだった。

この「ニーチェの言葉」のまえがきには、ニーチェについて、流言飛語が多く誤訳(言語についてではなく解釈についてだと思う)されている、と書かれたいた。
多分、私も誤訳しているような気がする。
この本の内容からは、人間愛に溢れるニーチェ像が明確に浮かぶ。

なぜ、昔の私はニーチェの人物像に反感を感じたのか。
よく「投影」の一言で済ませられるけど、自分でも不思議なのが、今回の場合のように作品は好きだが著者は苦手という場合があること。

ニーチェをバラの花に例えると、自分が観ているアングルから見たニーチェは、咲き具合や花弁の重なり具合がおそらく自分の好みではなかったんだろう。

でも、反対側から見ている人にはバラの反対側が見える。
その部分は非常にいい状態で自分の好みかもしれない。著作は反対側の特色のなせる業かもしれない。

観ている部分に対する執着が投影に当たるのだろうけど、自分が反対側に回る力量がなかったり勇気もしくは興味がなかったりするだけで、自分にはわからない、自分には見えない美点があるに違いない。

と思ったらいてもたってもいられなくなり、昔買ったニーチェ本を確認するべく、手に取ったニーチェ本を戻して急いで帰途に着いた。

相思鼠。

先日、ボン・ジョヴィが出ているということで「大人のロック」という雑誌を買った。
買う前に店頭で見てみたら、立ち読みで済みそうだったけど買ってしまった。
なんで最近、いつもサングラスをかけているのかなぁ~もったいない。
相変わらず、他のページは読んでもわからなかった。

ところで、付録に「名言カレンダー」というものがついていた。
12ヵ月分+今月の13枚分(13組のバンド)の写真と、そのバンドのメンバーの名言が書いてあるもの。
ボン・ジョヴィは6月で、リッチー・サンボラの言葉が載っていた。
この人に限らないけど、名言という割にはみんな普通のことを言っているんだな~と思った。
若しくはバンドについて知らないため意味がわからないもの。

それで思ったのだけど、今まで数十年見続けてきたプロレスの方が、むしろ演技性が強いというか芝居がかっているというか、そういう要素があるのでそれに慣れてしまって物足りなく思うのかもしれない。
ロッケンローラー(大友康平的発音)は「素」が大事なのかな~。

中高生の頃は、プロレスラーの芝居がかった名言に非常に感銘を受け、生徒手帳に書いていたりした(笑)
よく考えると、内容は普通に世間に受け入れられるものだし基本的にポジティブで単純明快な、若者にタメになることを言っているのだけど、表現が特殊だったんですね。

今思うと、その中でも特に特殊だったのがアントニオ猪木自伝のタイトル「君よ苦しめ、そして生きよ」。
「苦しみから逃げるな」とはよく言われるけど(最近はあまり言わないが)、積極的に(?)「苦しめ」というフレーズが逆に刺激的なんですね。

今考えれば、苦しむことと生きることを選択することの間には何の関連性もないわけだけど、このタイトルを見るとまるで苦しまなければ生きて行けないようにも取れる。
おそらく、それである一部のタイプの若者は「困難に挑戦する」とか「壁を越える」とかいう概念を触発され、自分の生存権に自信を持った部分もあったと思う。

同じ内容でも、この狂気じみた表現でなければ心に響かないタイプというのがいるんですよ(汗)
猪木さん自身はどういうつもりで言ったのか、自身の体験から自然に出た言葉かもしれないが、確実にこのタイプの人間の救いになっていた。

今はプロレスラーもプロレス界自体も当時より開かれたというか、大分一般社会との親和性が高くなり、プロレスラーのセリフも「愛してま~す!」に代表される、一般的なものが増えた。
大きい大会の最後には優勝者がどんなことを言うのかも楽しみの一つになっている。
名言を聞けること、好きな言葉が増えることは一種の幸せですね。

ベージュ。

イギリス皇太子夫妻が来日しているというのに、ほとんど話題になっていないような気がする。
最も、私もダイアナ妃が好きだったので現在の夫人にはあまりいい印象を持っていないが。

ダイアナ妃が亡くなったときの雑誌の追悼特集、ほとんど全て買った。
それまで、皇太子はいくら家庭の事情がどうであれ、絶対に離婚はしないものだと思っていたので、当時は非常に驚いたことを覚えている。

現在の夫人は「皇太子妃」という称号は使わず、ナントカ公爵夫人ですよね、確か。
「皇太子妃」というのは立場を表す言葉ではなく、称号なのだが、ああいう世界ではその称号が大事だったりする。

現在の立憲君主制よりもっと重みを持っていたであろう、帝政フランスでのこと。
ナポレオンがスペイン遠征中、とある寒村近くでクリスマスを迎えた。
ナポレオンでもクリスマスは暖かい家庭の雰囲気の中で迎えたかったのだろう、ある貧しい老婆(昔はこんな表現が使われていた)の家をフラリと訪ねた。

老婆の精一杯のもてなしに感動し、コーヒーを振舞ったところ、その初めて見るであろう黒い飲み物に対する無邪気な驚きはナポレオンを和ませた。
ナポレオンは、その老婆に感謝の印として、いくらだったかのお金と「皇妃」の称号を与えた。

……という話を書物で読んだことがある。

ダイアナが離婚した際、「プリンセス」の称号を要求したそうだが、この「プリンセス」は「いいところのお嬢さん」くらいのもので、王族に必ず付けられる「HRH(ハー・ロイヤル・ハイネス=殿下)」は要求しなかった。

ということは、それ以降どんな位の低い王族に対してもひざをかがめてお辞儀をしなければならないということ。
それまでは女王夫妻、皇太子に次いで高い立場だったのに。
それでも自分の道を進みたかった、ということなんだろうか。
離婚後初めて来日した時、雅子妃に対して、本当にひざをかがめて挨拶をしていたのが印象に残っている。

カミラ夫人は、チャールズが国王になっても「王妃」の称号は使わずに「国王夫人」と名乗るつもりだということだが、どうなるのかな。

ロイヤルブルー。

先日、4人ものノーベル賞受賞者が出たということで話題になったが、そのうちのある人についてちょっと驚くことがあった。
その人は、名前は忘れたが(申し訳ないが)クラゲの人。
そして驚いたというのはその息子さんについて。

息子さんはコンピューターウイルスだかハッカーを撃退するみたいな仕事で、非常に高度な技術を持っているということで、アメリカでは凄く有名な人だと紹介されていた。
その写真を見た時。

10年以上前に、新聞で一度見たことがあったことを思い出した。
よくある人物紹介のコラムだったのだが、まずその表情がとても印象的で、つられて記事も読んだ。
凄い人なんだな~と思ったものだが。
その顔が忘れられなくて、時々「あの時のコラムの人は…」と思い出したりしていた。
そして今回、クラゲの人の息子さんの写真を見た時、名前は忘れていたけどこの人だと確信した。

通常、私は残念なことに人の顔を覚えるのが得意ではない。
似顔絵を描くのにまったくもってやっかいな弱点である。
一度に大勢の人を紹介されることがある時なども非常に困っている。

以前、養老孟司が「唯脳論」について語るセミナーを聞いたことがあるのだが、その中で「日本人はなぜ欧米人に比べて人の顔や名前を覚えるのが苦手なのか」という話をしてくれた。

理由の一つは、欧米人はこの手のパーティーが多く慣れている、というもの。
もう一つの理由が印象深かったのだが、文字の読み方からくる脳のキャパシティの関係ではないかと言っていた。

日本語の漢字は、一つの字でいろいろな読み方をする。
対して、他のどの国の言葉でも、一つの字に対しては一つの読み方しか当てられていない(「A」は「エー」としか読まない)。
それで、日本人が使っている分のキャパシティは、機会が多い顔を覚えることに使われているのではということだった。

そして、顔に対して名前という関係が、文字に対する読み方のような関係なのではないかとも言っていた。
言われてみれば、あ~なるほど~! と目からウロコのような話だった。

ちなみに、今は海外でも日本のマンガが人気らしいが、昔から日本人がマンガが好きなのは、同じ原理で絵に対しての噴出しは文字に対するルビの役割と同じなので、文字の読み方を読み分ける日本人には楽な作業なのではないかということだった。

本題に戻るが、その日本人の中でも私はどうも人と比べて顔を覚えるのが苦手なのだが、10年前のあの写真があんなに印象に残っていたのは、とにかく表情がとてもよかったことが挙げられる。

なんというか、素直な自信に満ちた剣のない表情で、みとれてしまって何時間でも見ていたいくらいだった。
加えて仕事内容が、なんかPC関連の凄い技術を持っていて、それを誰も知らないところで人のために役立てていて、実は知らない間に危機を回避してくれていた、というのが映画みたいで感動してしまった。

今回久しぶりに見た写真でも、以前と同じように素直な自信に満ちた剣のない表情だった。
こういう部分で変わっていないのは非常に感慨深い。
この人をモデルにした映画もあるそうなので、機会があったら見てみたい。

鴇色。

偶然、広島の原爆展みたいなのを見る機会があった。
体験談、写真、比較的最近かと思われる絵などがあった。

戦争体験のテーマはよくTVでやっているし、高校の修学旅行では広島の原爆記念館にも行ったけど、何度見ても慣れませんね。まだ絵が原画ではなかったからよかった。
そんなことを言っていられるのも自分が恵まれているからだとは思うが。多分、原画も一度見た方がいいような気がする。

主催は地元の平和団体で、昔やはりココが主催した731部隊の医師だった方の講演を公民館に聴きに行ったことを思い出した。
その前には、駅で赤紙の複製をもらったことがある。
その赤紙を探したらあったのでupしようと思ったけど、個人の名前が書いてあったし気が進まないのでやめた。

白。

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