マリー・アントニオの日記へようこそ…今日の気分を、好きな薔薇の花の色にたとえて日記に綴っています。現実には存在しない色もありますがそこはご愛嬌?
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マリー・アントニオ
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非公開
自己紹介:
生年月日:1967年
★詳しくはコチラ
★日常、趣味、その他について感じたことをとりとめもなく綴っています。
★上記HPも興味があったら是非見てください。イラスト、ショートショート、エッセイ等を載せています。
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先週、書こうと思っていて忘れていたことを思い出した。
終戦記念日近辺に、かの731部隊の特集をやっていた。リポーターは鳥越俊太郎さん。
今回初めて明かされる事実があるということだった。
この関係はこれからもずっとリポートし続けていかなければならないのだろうけど、とりあえず現段階でのことということなのだろう。
その特集そのものも興味をもって見たが、二十代前半の頃、近くの公民館に731部隊で医師をやっていた人が講演に来て、それを聞きに行った時のことを思い出した。

本人の口から聞く人体実験の話というのは凄く衝撃だった。
その人が言うには、当時は自分が悪いことをしているという意識はなかったのだが(あの当時の世相では無理ないかも…)、終戦後、良心の呵責にさいなまれて罪滅ぼしのためと、二度と同じ過ちを繰り返さないために語り継がなければならないという気持ちから、講演して回っているということだった。
その人が最後に
「どうして日本人は過去の過ちをすぐに忘れてしまうんだろう」と、聴衆に問いかけるように言った言葉が印象的だった。

その言葉で、思い出したことがある。
昔、「過ぎたことを水に流す」という表現について読んだことだけど、
他国と国境を接したヨーロッパ諸国では、自国を流れる川は隣国へ続いている。自分の国が川を汚せば下流の国に迷惑がかかる。
それに対して、日本は川を汚してもいずれ海にそそぎ、わからなくなってしまう。
それで、都合の悪いことは川に流してしまえばいずれ忘れ去られ、責任の所在がわからなくなってしまうというわけだ、ということだった。
その場では場違いなような気がしたので発言しなかったが、これって多分、日本特有の思想だよね…。

国防色。

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昨日「独断と偏見で言いたいことを…」と書いたが、どのように書くか思案していたところ、先日、他の方が気づいたことを箇条書きにしていたのがおもしろかったのでマネしてみました。

●電車の中で脚を組んで座っている人の脚の間に入って外れないようにしてあげるのは啓蒙活動だ(経験者)。

●電車の中で堂々と新聞のHページを見ている人の新聞の端が手すりにかかっている時、手で押さえてずっと見ていられるようにしてあげるのは啓蒙活動だ(経験者)。

●ベビーカーのお母さんが階段の下にいる時、「手伝いますよ」と話しかけて近くの若者に頼むと必ず持って上がってくれる。結局自分は何もやっていない。ついでに言うと、上りの時だけ注目されるが下りも怖くて危ないと思う。

●初めて使う水道の蛇口バーは上げるのか下げるのかわからない。

●初めてやることは右手と左手どちらがいいかわからない。

●赤ちゃんに対して赤ちゃん言葉を使うとき、嬉しいのは実は赤ちゃんではなく甘えた気分にひたれる自分。

●絵を描く幼児に声をかける時、「上手だね~」と言いながら次に「これは何?」。
この欺瞞を幼児は見抜いている。言葉を操れないので表現できないだけの話。

●飼い慣らされた生き物が人間に構ってもらって嬉しがっていると思うのは人間の奢り。
実は嬉しがっているのは人間で、自分が優位に立てる対象が欲しい歪んだ所有欲と支配欲から相手が嬉しがっているのだと思いたい。
生き物の方では、嬉しがっているフリをしないと居場所がなくなることをわかっている。

 

●サファリパークの中を車で周り、ライオンが車の中のお座敷犬に興味を持って窓から離れなかったので、外に放り出してしまった話を聞いたことがある。
禁止されていることをした責任をとって自分が車の外に出ろ。他の命に対して責任を持つとはそういうこと。

●一人暮らしとは、人がローン(家賃)を払い、人の管理する家に独りでいる時間が長いことではない。

●一人暮らしが長いと、自分さえ良ければいいので気をつけないと世間とズレてくる。

●手を出してはみたものの、実は自分の手には負えない代物だった時、引き際の見極めと責任の取り方でその人の真価が問われる。

●昔は良かったと思えるのは、今更どうしようもないから、ひとごとのように語れるからだ。
玄関にカギのない時代が女性にとってよかったか。
押し売りが縁側に居座る時代がよかったか。
北向きの冷たく暗い台所がよかったか。
洗濯機のない時代がよかったか。
生活資料の生産のみを重視し、生命の生産及び家事労働の対価を除外したマルクスの「資本論」が無批判に崇められていた時代がよかったか。
暴行が女性の貞操観念の問題だと言われた時代がよかったか。
そのくせ産児調整が許されない時代がよかったか。
優性保護法と母体保護法の違いを説明できるのか。
25歳で結婚定年などという制度で経済的自立を阻まれた時代がよかったか。
質の悪い衛生用品で自由に行動できない時代がよかったか。
そんなにいいなら「昔は」ではなく今やってみろ。誰かの作ったイメージを鵜呑みにするな。
それは誰の視点でどのような意図があるのか自分で考えろ。

●台風の時、オチョコになった傘を一生懸命さしている人になぜなのか聞いてみたい。

●昨日、また康平&紀香のCMを見てしまった!
紀香め、部屋に胡蝶蘭なんか飾っちゃって!
康平の好きな花はカサブランカだよ!!


薄鼠(うすねず)。

このセミナーは医療行為ではないので本来、それほど専門的な知識は必要ないの
だが、テキストの最後のページに載っていた参考文献を全て買って読んでいだ。
当時、寝る時と仕事をしている時以外は常にテキストや参考文献の書籍を読んで
いたといっても過言ではなく(会社の昼休み中にまで!)、その中のカウンセリングのワークブックなどを今見てみても、交流分析についてなどは半分くらいは覚えていることに驚く。
しかしである、曲がりなりにも何かがわかりかけてくると自分にとって都合の悪い
こともわかってしまうのもで、まさにそのセミナーで、自分は人の相談に乗るには
決定的な欠点があることに気づいてしまったのだった。
今考えてみると、無意識的に自分のためにヒーリングをやっていたのだと思う。
その参考文献の中にはもちろん、昨日書いた河合隼雄の書籍もあったが、この方がどちらかというとアカデミズム寄りなのに対して、最近よく名前を聞く斉藤学(さとる)は逆の立場のような気がする。当然、テキストや参考文献には載っていなかった。
この方は家族問題に詳しく、書籍でも「家族依存症」「家族という名の孤独」などがある。
斉藤学は好きでもこれらの書籍はあまり興味を引かれなかったが、最近出た「家族はこわい」は怖くておもしろいそうなので読んでみたい気もする。

深緋。

ニュースを見て驚いた。
なんと、河合隼雄が亡くなったということだ。
以前、某協会のカウンセリングのようなもの(正式な医療行為のカウンセリングではない)のセミナーを受けていた時、基礎過程の後での実践過程の講師陣の一人だった。
ロープレの講師もしてくれて、その時は人数の関係で2つの教室に分かれてもう一つの教室の担当だったのだけど、見てもらいたかったな~。
資格の役に立たない度合いとは裏腹に、講師陣・内容共に非常によかった。
ここで勉強したことは今でも役に立っている部分がある。
そうか~亡くなってしまったのか~~…。
ユングが性に合う私としては、ユング研究の第一人者の河合さんは親近感があった。
書籍は数冊しか持っていないけど、読みやすいものが多いと思う。
ただ、全面的に傾倒しているわけでもなく、違和感を覚える部分もあるけど。
スクールカウンセラーを導入したことについては賛否両論あるけど、実は私も否定派の某心理学者の主張の方が納得できる。
当事者ではないのでなんとも言えないが、自分が中高生だった頃にこういう制度があったらどうだったのかな~。

藍鼠。

昨日、「食べる物が…」という話が出たついでといってはなんだけど。
もともと、体質が弱い私は内臓の働きも弱いので、物を食べるという行為は一種のストレスになる(サーロインステーキは除く)。
多分、信じられない方の方が多いと思うけど、私にとって「食べる」ということは、仕事をすることと同じような感覚なのです。
内臓が仕事をしているというか…。
例えば、コース料理の場合、一つのお皿のものを食べ終わると次にまた新しいお皿が出てきますよね。
あれは、やっと一つの仕事を片付けたと思ったらまたすぐに次の仕事が出てくるようなものなのです。
又、食品添加物入りのものを食べてあとで具合が悪くなる場合、エラーやミスを忙しさにかまけてドサクサにまぎれて処理してしまい、あとでバレて始末書を書くようなもの、
そして最もストレスになるものは、なにをかくそうバイキング形式の食事です。
あれは、朝、職場に行ったら机の上に処理しきれないほどの仕事が山積みになっているようなものなのです。しかもそれに時間制限なんかがあったら…。
そんなこんなで、タダでさえストレスになることなのだから、付き合いの長い友人やよほどの事情がある場合を除いて、食事に誘われてもあまり嬉しくないというのが本音です。
なので食事よりバーに行きたいなどと言って、あらぬ誤解を与えてしまったことも何度もあります。
自分の妄想癖を棚に上げてどうしてそんな方向へ話が行くのかと思いますが、世の中の常識がそうなっているのだから仕方がない。
でも、そういう時のリアクションがスマートな人はカッコいいですね。
今までの最上級表現としては、10年くらい前だったか、
「君のような素敵な人と飲んだらどうなってしまうかわからないから…」
という歯の浮くようなセリフがありました。
当然、「それはつまり嫌だってことね」とわかるけど、例え勝手な妄想でもここまでくればおもしろい。

ライトグレー。
昨日は地震の件ですっかり忘れていたけど、実は昨日、起きたら食べるものがなかったのです。
単に食料を買い忘れていたということだけなのだけど、あるものといえばパスタ1回分ほど。
昔書いたことがあるかもしれないけど、この「パスタ1回分」というのが、私には非常に印象に残っている思い出がある。
20代の頃、失業中に加えてある事情で訴えられそうになったり等々、いろいろなことが重なって貯金も底をつき、食べるのにも困った時があった。
一番ひどい時で確か1ヵ月に7回ほどしか食事ができず、動けないし、動いてみても10分ももたないし、判断力が落ちて信号の意味がわからなかったりして、一日中寝ていた(というかダウンしていた)。
そしてもう食材もほとんど使い果たし、パスタ1回分と調味料、コーヒー・紅茶くらいしかなくなってしまっていた時。
ソースがないのならと、パスタを茹でて裏ごしし、ペースト状にして、砂糖・コーヒーを混ぜ、型抜きしてクッキーを焼いて食べた。
味を感じている余裕はなかったのか普通に食べられたが、今作ったらどうなんだろう。
だいぶ経ってからその時のことを笑い話みたいにして友人に話したら、自分ならパスタを普通に茹でて塩をふって食べると言われた。
どうしてそんな簡単なことに気づかなかったんだろう。頭に栄養が行き渡らない時の思考ってわけわかりませんね。
当時、ちょっと銀行強盗のフリでもすればすぐにつかまって、とりあえず1回分は食事にありつけると思い、がんばって駅前まで歩いて行ってオモチャの拳銃を出しさえすれば…と行くかどうしようか真剣に迷ったこともある。

ただ、お金がない時は今よりいろんなことが見えていたような気がする。
どうしてまだ自分は生きていられるんだろうと不思議に思うわけだが、それは自然が空気を与えてくれているからだと、うつろな頭である時思った。
お金がない自分でも、空気だけはタダで吸える。
自分のようななにもできない人間にも、自然は無差別に無言で与えてくれる。
そのいいものも悪いものも全て飲み込む器の大きさに、自分がいかに守られているかということを実感した。
そしていつの間にか、自然のサイクルの中では自分も、水一滴も、道端の花も蟻も
同じだと思うようになっていた。
それから何年も経つが、野菜と自分が等価値だと思うと無駄に捨てられない。
水一滴も自分の一部だと思うとムダにできない。道端の花を摘むことは自分が殺されると同じように思えてくる。
もし普通の状態に戻れたら敬意を持って自然と接したいと思ったまでもなく、実体験を伴ったことで抜けなくなってしまった。
ただ、こんなことを経験するのが必ずしもいいとは言えないとも思う。
自分でプラスになったと思っている点だけを挙げたが、同じように未だに抜けない
マイナス点もある。
もともと、コミュニケーション能力がないくせに自己主張は強く、自分のことをわかってもらおうとは思っていなかったが、世界中の人間が敵なんじゃないかという被害妄想は恐ろしかった。
ボン・ジョヴィの今回のアルバムの歌詞ではないけど、心が耐えられる痛みには限界がある。
無意味なガマンならする必要はないので、帰る場所がある、頼るアテがある幸運な
人は諸々の事情は置いておいてとりあえずそこに行けと言ってあげたい。
元気になったらいくらでも借りは返せるんだから。

コーラル。

ここ数日、涼しい日が続いて過ごしやすい。
昨年だか、一度熱中症かな?と思った時がある。
それは非常に暑い日の真っ昼間に、徒歩10分くらいのところにある店へ行った時のこと。
目的の品物を買ってふと気がつくと、何だか頭が熱かった。
それまで感じたことのない奇妙な不快感に、これはもしかしてウワサの熱中症ではないかと気がついた。
それで、ヤッター日記のネタができたなどと思い、この感覚のレポートをしようとしたのだが、頭がしびれるような感覚があり危ない気がしたので、とにかく一番近い場所のフードコートめざして頭を揺らさないようにしてゆっくり歩いて行った。
こういう時はスポーツ飲料がいいというけど、もちろんメニューにはないのでウーロン茶を頼んだ。
自販機でスポーツ飲料を買えばいいのだろうけど持ち込み禁止だし、応急処置としては座席をキープして気分的に安心することが大事だと思ったわけです。
しばらくテーブルで休んでいたら落ち着いたが、やはりウーロン茶だからなのかあまり気分はよくならないのでフードコートを出て自販機でスポーツ飲料を買い、フリーのベンチで飲んだらだいぶスッキリした。
家まで歩ける確信が持てるくらいには回復したのですぐに帰り、また水分を補給して横になっていたらほぼ回復したが、その日一日、頭が熱くて重かった。
そして、原因は何だろうと考えた。
水分はいつもアルカリイオン水を1日2リットルとっていてこの日も出かけるまでには1リットルくらいはとっていたし、10分しか歩いていないのに。
ということは、歩きながらこまめに水分を補給していなかったからか、帽子をかぶらず、おまけにサンダルではなくスニーカーを履いていて熱の逃げ場がなかったことしか思いつかない。
だってペディキュアを塗り直していなかったから前の週と同じ色だったんだもん。
この日は当然、筋トレはお休みでした。


それにしても、体質が強い人は体力で乗り切ってしまうのかもしれないけど、ベースの体質が弱いと少しの異変にすぐ気がつくのでその点はありがたい。
そういえば私が中高生の頃はまだ根性論がまかり通っていて、耐えられない自分が悪いのだと思っていた。
必要な努力と無駄なガマンは違うと思うけど、明らかに私は無駄なガマンをし過ぎたと思う。
そしてその反動か、今は必要な努力もしていないw
だいたい、根性論というのは体質的にリスクの少ない人の基準になっているし、その内容が激しい動きを伴うものが多いので、一見農耕民族的な地道な努力をしているような錯覚に陥る。
更に見ている側も、自分は何も失わず少しも傷つかず、辛く苦しく格好悪い思いもせずにその人と同化して、まるで自分のことのように悦に入ることができるので勝手なロマンをもって語られがちである。
大抵のことと同じように、傍観者には何の期待もできない。
おまけに身体的にリスクを負っている場合は見てすぐにわかるけど、体質的なリスクはわからないので何ともないと思われてしまう。
今でこそ自分の体質を把握し、いろいろ試した結果自分に合った方法がわかるけど、当時はそんなことはわからず、うまく説明もできなかったので、あまりいい例えではないけど片腕を失った人に両腕を出せというような要求にも結局無駄なガマンをしてしまったのだと思う。

アイスブルー。

先日、電車に乗っていた時のこと。
土曜日の昼間で、始発駅で座って発車を待っていたら小学生の集団が乗車してきた。
遠足か何か帰りみたいで、幾つかのグループごとに好きな車両に散っていった。
そして、私が座っているすぐ隣あたりに男の子3人&女の子3人のグループが来た。
多少、遠足帰りの興奮はあるものの、比較的行儀の良い子達だった。
その中の1人の男の子が、誰に言うともなく「腹痛い」とつぶやいていた。
しばらくして、引率の若い女性の先生が乗ってきた。
その男の子は先生に「先生、腹痛い。」と言ったのだが、ナントその先生は無視して行ってしまった。なんだこれは??
普段、この男の子がどういう子なのか知らないのでなんとも言えないけど、普通なにかアクションがあるよね?
私は子どもと接する機会がないけど、電車の中で中腰でヒザに手をついてじっとしていたりでも床に座るなと言われているのか数秒でまた立って手すりによりかかったり、明らかに様子がおかしかった。
席を替わってあげようかなと一瞬思ったが、だめ。
だってそんなことしたらこの子、明日から学校で男の子達に「こいつよ~昨日電車の中で知らない大人の女の人に席ゆずってもらったんだぜ~ダッセ~~www」と言われるのは必死なのである。
そして女の子達からは陰で同情されるであろう。
多分、5年生か6年生くらいなので、今後1~2年は「ヘタレ」決定になってしまいます。
高校生くらいになると人によって体質は違うということがわかるのだけど、この年頃はどんなことを口走るかわかりませんね。
またそのグループの女の子達がしっかりした感じの子達で、ヤセガマンして倒れた方がまだマシだという雰囲気全開だった。
こういう時に先生の権限で「特別に今だけはいいから床に座っていなさい」とかなんとか言えばこの子も余計な気をまわさずにラクになれるのにまったく。
そして電車が発車して、2駅目くらいで近くの席が空いた。
空いたよ空いたよ! と心の中で叫び、男の子は飛びつきたいであろう気持ちを押さえ、さりげない風を装って座った。ただし、まだ虚勢をはって横座りで…。がんばれ。
私の方が先に降りたのだけど、おそらく最後まで面目を保ったであろう。

国防色。

芸能界に詳しい友人が、なにげにとあるカップルの婚約会見の様子を話してくれた。
こういったことは特別興味があるわけではないのだが(むしろ「デキ婚」と強調する点がうっとうしい)、一点気になったことがある。
その友人もそれが腹立たしくて話したくなったのだろう。それは…。
男性レポーターがカップルの女性側に、「赤ちゃんを産むってどういうことかわかるよね?」と聞いたということだ。
???何様のつもりですか?
じゃあ、産む機能を持つ当事者でもないあなたにはわかるんですか??
その他、失礼な質問が続いたということだがこれはセクハラ、モラハラ、人権侵害に当たる可能性はない?
確かに芸能人は商品だというけど、それは当事者側が言うこと、もしくは評論家のような人が客観的な状況の説明などで言うことであって、楽しませてもらっている側が言うことではない。
舞台降板の責任云々について聞きたかったら他に言い方があるというものだ。
こういう自分の価値観にないものに触れると人格否定、人格攻撃に走る人をよく見ますよね。
相手を攻撃することで自分の殻を後生大事に守っているのだと思うが、カリメロですか。
話がそれたが、いくら未成年でも女性である限り、少なくとも当事者でもない男性よりはよほどよく身にしみているものです。
生まれた時から意識的・無意識的に関わらず、生について「産む」当事者として思考する者と「誰かが産んでくれる」という部外者として思考する者と、どちらがよりわかっているでしょう。部外者が悪いというのではなく、立場の違いということについての話です。
こういう人たちの、人を暗に挑発しておきながら、太刀打ちできないとなると何食わぬ顔をしてまたすり寄っていく生態は昔から変わりませんね。
自分の立場をハッキリさせず、どちらに転んでもいいように保険をかけているところが余計に浅ましい。
芸能人の方はそういう生態や裏行動を何もかも知っているということは知っていますよね。
まぁまた同じようなのが出てきたというくらいの気持ちだろうし、騒ぐほどのことではないと思って適当にあしらっているのだろうが。


また話がそれたが、男性が出産をすると7割が痛みで死ぬか発狂するというシミュレーションをご存知の方もいると思いますが、このレポーターにも教えてあげようか。
多分、TVを見て言わずにはいられない人たちがいろんなことを既に言ってくれていると思うが。
私だったら「無能ってどういうことかわかるよね?」と言ってあげる。「不能」と言わないだけありがたいと思え。
まぁ考えてみれば、いかにも頼りなさそうなカップルだそうで、残念ながらガチで舐められているところもあるのかな。
友人が怒っている原因のもう一つ、内輪の会話ならともかく、きちんとした会見で「妻」のことを「嫁」などと言う認識のなさも舐められる原因ではないですかね。
「嫁」とは、戦前の家制度で女性が自分の「家」を出て男性の「家」に身柄を移し、男性側の家族の一員になった時代の言葉ですね。この人たち、若く見えるけど戦前の生まれだったのか。
現代の婚姻制度とは両者が自分の籍を抜けて新しい籍を作り、姓はどちらをとっても良いのだが今までの慣習で男性の姓を取る場合が多いだけなので、厳密に言えば「入籍」ではなく「造籍」、「作籍」が正しいというフォーマルマナーの講師もいるくらいだ。
きっと件の会見の二人は忙しくて戦後戸籍制度になったことを知らなかったのだろう。
一昔前はほとんど死語に近かった印象のあるこういった言葉も、誰でも自由に書き込めるネットが発達してからか頻繁に聞くようになった。
確か12~13年ほど前に、神奈川のチベットの会社にいた時の同僚が、結婚することを「嫁に行く」と表現して仰天し、それを都内に住んでいる近畿地方出身の友人に話したら「神奈川でもまだそんな言い方する所あるんだ~!」と泣きながら笑っていたのでよく覚えている。
うがった見方をすれば、家制度の家父長的な要素を取り入れた新しい形の、国家にとって都合の良い「家族」像を推進する、ネットやマスコミを使ったサブリミナルではないかと思ってしまう。
まったく、友人・知人の男性諸氏の爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。
あまり言う機会はないけど、この機会に言っておきたい。皆さんいつも誠意をもって接してくれてありがとうございます。

ベイベーピンク。

22日の日記でドラゴについて右とか左とか言っていて、ついでに書こうと思ったこと
があるのでそれについて少し。
以前、ビジネスマナーの研修を受けた時。
多分、アサーショントレーニングの回だったと思うが、裏技のようなものを講師が
余興で話してくれた。
それは謝罪についての話で、上司の前に何人かが並んで謝罪する時に、どこに並べばいいか…。
結論は、上司から見て左側がいいのだそうだ。
というのは、通常、自分の右側にいる相手は左側の人よりも敵意や緊張を感じやすいということだった。
それがナゼかということについてはハッキリした理由はわからないのだが、
一説には利き手の方向をふさがれるので警戒心を持ちやすいのではないかということだった。
ただし、あくまでビジネスマナーの研修なので、明らかに自分が責任をとるべき時
には進んで右側に出るくらいの姿勢が必要ということで締められたが。
まぁこういうことも、あまり考えすぎるとそれにとらわれて何もできなくなってしまい
ますよね。
特に日常生活では「そこにいる」ということ自体が安心感につながったりするワケ
だから…。

ボルドー。

最近、毎日毎日、毎日毎日、毎日毎日毎日毎日ぼくらは鉄板の~♪……ではなくて(昔流行った「およげ!たいやきくん」若い方は知っているかな~?)拳銃を使った事件が多いですよね?? もうどの事件がどれだか区別がつかないくらいです。
現在のアメリカ人の方々としては、祖先のピューリタンの方々が神からアメリカへ渡る使命を受けてきたと解釈しているそうで、したがって自力で自由を勝ち取ることは
正しいことだという思想で、それを否定することは民族的アイデンティティーが揺らぐのだそうだ。
まぁ英国国教会自体が、王が自分の都合で作ったようなものだし…。
キリスト教はあのやさしい語り口とは裏腹に、父性原理の強い厳格な宗教だと思うが、多分ヨーロッパのような国境の接した平坦な開発しやすい土地では、なにか強いものがなければ人間が思い上がってしまうのでキリストが発達したのではないだろうか。
又、例えばイスラム圏、例えばエジプトのような荒涼とした砂漠では神意外に頼るものがなく、神が絶対的な存在として全人格を支配するまでになってしまっているように見える。
それに対して日本における宗教の位置は、儀式を慣習として行うことにとどまっている。
日本に古来からあった、農耕儀礼で自然を崇拝する神道が仏教にとって代わられたのも自然の成り行きなんでしょうか??

 山や川や木、石、鳥、動物などにも神が存在すると信じられてきた神道だが、温暖湿潤気候で過ごしやすく、他国とも国境を接していない日本の風土は神を必要としていないのかもしれない。
それは人間を宗教に縛り付けない反面、モラルに対して希薄な民族性ができあがった…というのはうがった見方ですかねぇ…。
だいたい、体育会系と言われる運動部の上下関係も、もともとは「道」の精神が発端になっているのだと思うが、それが上の人間に都合のいいように誤って解釈されていると思う。
「道」とは物事を極める道程・過程を意味し、弟子が師につき、師の技術を模擬しながら受け継いでいく過程の精神論である。だから、見習われる方の師匠はそれにふさわしい人間でなければならない。
例えば武道系では、上の人間は下の人間より絶対に強くなければならない。そうでなければ見習う意味がないからである。そしてその強さは、精神の深さと解釈される。
ヨーロッパから輸入された「スポーツ」とは根本的に趣旨が違うのである。
蛇足だが「北斗の拳」でラオウがしきりに「弟に劣ってはならない」と言っていたのは
こういう意味である。
アメリカ人がキリスト教の教義を「契約」だとハッキリ認識しているのに対して、どうでしょう。
最も、この曖昧さが「刀」を比較的簡単に手放したとことになるのかな…。

ところで、夜、用があって少し遠回りをしたら、普段は使われていない空店舗みたいなところに近くある選挙に立候補している人の選対本部ができていた。
そこにやってきた人…。TVニュースで頻繁にコメンテーターとして出演している某弁護士だった。
TVと全く同じ好印象だった。

江戸紫。

nikki-kamennbutoukai.jpg昨日は風が少し出ていて、早くも桜がけっこう舞い散っていた。
「散り際の美学」って日本特有の思想だと知った時は驚いたけど、美学どころか桜が散るシーンを見ると妙に焦燥感を感じますよね(私だけかな?)。
実際、春になると普段は何の問題もない人でもウツ気味になるらしく、通勤電車(東海道線)では4月の第1週の平日5日のうち3日も飛び込み(自殺)の影響で遅れた年もある。
これは春の「スタート」というイメージと関係があるのだそうだ。
気候がよくなり、開放的に明るくなり、新しい年度が始まり、人の入れ替わりがあり、周囲の環境が大きく変わる中で、自分以外の人は皆アグレッシブに見え、自分だけが取り残されているような錯覚を起こしやすいのだそうだ。
でもね、多かれ少なかれそれは皆同じことを感じているんだよね。
特に自分が当たり前のようにやっていることって、その価値を自分では意識しないものだから、無意味に思えてくることもあると思う。
みんなはどんどん変わっていくのに自分は相変わらず同じ事を…と思うのかな。
毎日少しずつ進化しているから気付かないのだろう。
むしろ意識しないほど当たり前になっていることが凄いことで、そのブレない姿勢が周囲に安心感を与えるんですよね。
そして、それは純粋な気持ちと実力がなければ続けられないと思う。
それでも人間だから迷うこともあると思うけど、何も悪い方へは変わっていないんですよ、周囲も、貴方も。
だから、安心して自分の成すべきことに取り組めばよろしいです。
周囲の人間は、これからもずっとそこにいて応援していますです。

…ところで、人のことばかり言ってるんじゃないよ私w

写真:横浜・クイーンズスクエアでやっていた、ベネチアの仮面舞踏会の衣装展

ボルドー。

ところで、買い物に行くともう今では当たり前のようにやっていることなのだが、食材を買う時は、体質の関係でなるべく科学物質や添加物の入っていないものを選んでいる。
体質が強く、どんな物を食べてもビクともしない人から見るとなんて面倒なことをしているのだと思うかもしれないけど、それを避けるようにしてから劇的に体質がよくなった。
今でも特別強いというワケではないが、少なくとも何かの病気の症状の本で読んだ
「死んだように生きている」という状態ではなくなった。
特に気をつけているのが調味料で、食材の場合はたまには発色剤だの化学調味料だのが入っているものを買うこともあるが、調味料は(予算の許す限りで)できるだけ質の良いものを買っている。
で、なにかというと塩をふっている私としては、塩売り場に並んでいる珍しい塩につい見入ってしまう。
「塩をふっている」というのは、食事をする時にその品によって使う調味料があると思うが、私の場合、ほとんどの料理に塩を使う。サラダを始めとして肉料理、魚料理、天ぷら、揚げ物、等。
昔はちゃんとドレッシングやソースを使っていたけど、数年前からそうなった。
もちろん料理をする時はちゃんと本の通りに指定された調味料を使っているが。
売り場ではいつ頃からか、輸入物が普通に並ぶようになり、ドイツの岩塩だのシベリアのナントカだのアルペンザルツだの…アルペンザルツは一度買ったことがあった。
ただ、いろいろ試してみたいけど食材関係ってその土地の者は気候や風土が同じ、その土地の作物を摂取するのが体質には合っているんじゃないかと思う。
なにかで読んだ話だけど、アメリカの土(アバウトに「アメリカ」と書いてあったのでどのあたりの地域が特にそうなのかはわからないが)は作物が大きくできる成分なのだそうだ。
同じ「1個食べる」というのでも、咀嚼回数も違うだろうし消化にかかる時間も違うとしたら、それに合わせて内臓の機能も違うかもしれない。

その内臓の持ち主の好む塩を日本人が摂取すると長期的にはどう体質が変わっていくのか、100年後とか見てみたい気もする。
又、昔アメリカから輸入されるフルーツの農薬の問題が話題になったけど、アメリカ西海岸の木から取ってつまりは死んだ状態のものを長い時間かけて運ばれてきたものを食べるより、極端にいえば隣の家の木からもぎ取った方が安心ですよね。道義的な問題はともかく。
ここの物件の斜め裏の家は柿だったと思う。
野菜のPOPに産地が書いてあるのも、そういう要望があるからなんだろうな~。
そんなことを考えると、情報開示の信頼性の他、なるべく輸送コストが低い国内の物の方がスーパーの利益になり価格低下につながるかもしれないとか、地元の農家の作物を買った方が地域活性化につながって防犯予算が増えチカンが減るかもしれないとか…。
アメリカの学者先生が「ロハス」なんて言葉を作って定義してから急にブームになったけど、昔から生活者の立場の方は普通にやっていたような気がする。
まぁ中年男性の学者先生がスーパーに野菜を買いに行く生活を一生自分がやり続けるとは想定していないのだろうけど、別の視点から見ればそういう名称がつくということですね。
人と話す時に共通の認識が持てる言葉ができたことは利点か…。
ただ、言葉ができると発想が自分の体験上その言葉から連想されるものに限られて、管理されているように感じることがある。知らないものは発想できないもんね…。
まぁ、だから価値観の違う人と話をするのはおもしろいんですよね。
友人の一人などは、本人に言ったことはないが私の嫌いなものばかり好きである。でもほとんど気にならない。話を聞くと、自分にはできない発想を聞けるのでおもしろい。
ただ、こういうのって上段に構えてジャッジしていると思われかねないので、それを好きかと聞かれれば「あまり好きではない」とか「ちょっと苦手」と正直に言うが。
まぁそれでも自分のキャパには限界があり、昔「ビン・ラデ○ンが好きだ」と言って雑誌を買いあさっていた友人にはちょっと引いた…。

鳶色。

基本的に、旅行は一人で行くことが多い。
そうすると、ちゃんとした旅館やグレードの高いリゾートホテルに泊まるのは
難しい。
それで、屋根がついていればまぁいいかということでビジネスホテルに泊まることが
多くなったのだけど、最近気になるニュースがある。
それは、某ビジネスホテルの耐震偽装の件。
実は、ここの系列のホテルも一回泊まったことがある。
今問題になっている建物ではないけど、一つ見つかったということはもしかして
あの時泊まったところも…と思わなくもない。
このホテルチェーンは、某女性社長の広告塔としてのパフォーマンスが目立つが、
それ自体は特に問題はないと思う。
だが、泊まった時に気になることがあった。
部屋に入ると、その女性社長の自伝的な本とその広告が置いてあったのだ。
コレははっきりいって反則だよ…と思ったものだ。
ホテルというのは、個室の部屋に入れば自分の部屋と同じなのだ。そこに勝手に広告物が(しかも経営者側のものが)置いてあるなんてヘンでしょ。
ロビーなら宿泊者に限らず誰でも自由に使っていい空間なので全く問題はないと思うが…。
今までに泊まったビジネスホテルに比べて部屋が狭いのも窮屈で気になったが、
(大げさではなく、ベッドの上でなければ居る場所がなかった)
この広告の件でもうこの系列に進んで泊まりたいと思わなくなった。
ただ、今回の耐震偽装の件を見るにつけ、もしかしてそれで命拾いしたのかもしれないと思ったりするので、まぁ広告の件はチャラということでw

エメラルドグリーン。

今、最もフレッシュな奇怪な言葉、「産む機械」。
しかし。
バカもここまでくると何も言う気になれないのでこいつはもういいから、もっとまともな奇怪な言葉について。
その筆頭は、白昼堂々と言う言葉とはとても思えない、某女性タレントにつけられたキャッチ。
プロレスラーの故ブルーザー・ブロディにつけられた、
「インテリジェンス・モンスター」
のような、イメージが違う2つの言葉の組み合わせは人目を引き印象に残りやすいが、前述の女性タレントの場合のような、一方の性を非文化的に刺激するためにもう一方に不快感を押し付ける甘えた発想は可逆性を
持たない昆虫のようだ。不快指数1000パーセントである。
もしそれが恥ずかしくない言葉だと言うのなら、試しにアンタが尊敬する人の前で、母親の前で、娘の前で100回続けて言ってみろ。
と、エスカレートしてこちらこそ不快指数1000パーセントと言われそうになってしまった。
確かに、昨年春頃から聴き始めた洋楽、主にロックなんかでは、びっくりするような歌詞が少なくない。
だかそれとは明らかに意味合いが違う。制作者側の「表現」というものに対する意識が低いように感じられてならない。
ありがたいことに、実際はリアルでもネット上でも友人・知人の男性諸氏の皆さんには誠意をもって接していただいて、嬉しい限りである。
この非常識な私を見捨てずにいてくれてありがとう。
皆さん大好きです。

ブルーグレー。
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